映画 『ありふれた事件 』

監督:レミー・ベルヴォー、アンドレ・ボンゼル、ブノワ・ポールヴールド、脚本:レミー・ベルヴォー、アンドレ・ボンゼル、ブノワ・ポールヴールド、ヴァンサン・タヴィエ、撮影:アンドレ・ボンゼル、音楽:ジャン=マルク・シェニュ、主演:ブノワ・ポールヴールド、1992年、96分、モノクロ、ベルギー映画、原題:C'est arrive pres de chez vous(それはあなたの前で起こった)、R15+


監督と主演を兼務したブノワ・ポールヴールドは、ベルギー出身で、当時28歳。

主に登場する四人は、脚本のブノワ・ポールヴールド、レミー・ベルヴォー、アンドレ・ボンゼル、音楽のジャン=マルク・シェニュ自身だ。


あなたの目の前で起こった事件、という原題だが、この主役ベン(ブノワ・ポールヴールド)にとってはありふれた事件でも、ふつうの人にとっては異様な事件である。

すなわち、このベンという男は、殺人や強盗で食い繋いでいる殺人鬼だからだ。


彼は常にカメラの前にある。カメラマンや編集者などがベンに付いて歩き、ベンに問い、ベンに語らせることで、ベンの日常を描くドキュメンタリーというスタイルをとっている。

それゆえ、殺人シーンや、死体を海に落とすシーンなどが、そのまま撮影される。故意にモノクロで撮られ、ベンが死体処理の方法などをカメラに向かって解説するなど、不道徳を超越している。


無法者という設定だけに、ゲロを吐くところなど、きれいなシーンというものはほとんどない。ふつうの映画のありかたに真っ向から対立する。

ベンは、全く事務的に殺し、驚かせて殺し、狙われるとなると徹底的に仕返しして殺す。これら殺しのシーンを中心として、それに付随する強奪や強姦のシーンまで、そのとおりありのままに映し出す。特に、始まってすぐの列車内での殺しには仰天する。


後半で、ベンへの仕返しとして敵が撃ってくると、カメラクルーのひとりが射殺されてしまう。悲しみに暮れ、痛々しい言葉を並べる同僚も、カメラの前に置かれる。

暴力と狂気の行く末に、ラストで一応、正邪の辻褄は合わせられる。


人並みに両親を大切にし、誕生日を祝ってもらうシーンなどもあるが、これも、ベンの日常の線上に出てきているだけであって、彼の罪を阻却するわけではない。ストーリー上は、両親や知人は、彼のしていることを知らない。


全く一般受けすることのない内容でありながら、映像として迫力をもつ奇妙な映画だ。

ふだん我々は、そういうところを目撃することはほとんどない。しかしここでは、ベンという破天荒な男のしわざが、次々に映し出される。

ドキュメンタリータッチにするためか、カメラはほとんどハンディにしている。カメラクルーたちは、その身体の一部がカメラに映ろうとおかまいなしだ。そのクルーは、ベンの人殺しや死体遺棄を、現実に目の前で見ている。


こうした状況はおそらく、写真論などを論ずるときに、題材に使われるだろう。川を渡るベトナム人母子を撮るヒマがあるなら、手を差し伸べたらどうか(実際には、撮影後すぐ手助けしている)? ピュリッツァー賞が目的だったのか? これから人を殺すと宣言して豊田商事の社長を日本刀で殺した犯人を、なぜ宣言した段階で取り押さえなかったのか?

カメラマンは、写真を撮るのが使命だ。カメラの前の現実を、切り取らなければならない。しかしこの映画では、その使命を忘れ、最後にはベンに協力までするようになってしまう。カメラマン失格だ。


われわれにとって日常的にありえない映像を、ベンという男の生き様を描きながら、迫力をもって見せつけてくる。

この暴力で綴(つづ)られた非日常の世界を、否応なく圧倒的な力で見せられるとき、その前にあってわれわれは、立ち尽くすしかないのだろうか。


この映画は、殺人や暴力と同時に、ある意味、哲学的な命題をわれわれに投げつけたまま、解答も議論も拒否して、軽やかに去っていってしまうのだ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。