監督:堤幸彦、原作:荻原浩、脚本:砂本量、三浦有為子、撮影:唐沢悟、編集:伊藤伸行、照明:木村匡博、美術:及川一、音楽:大島ミチル、主演:渡辺謙、樋口可南子、2006年、122分、東映。
東映としては異例のヒューマン映画であり、感動的な作品だ。こうした作品が邦画にあるということは日本の誇りである。
エグゼクティヴプロデュサーを買って出た渡辺謙の面目躍如といったところだ。つくりも大変誠実であり共感を呼ぶ秀作だ。
49歳の佐伯雅行(渡辺謙)は広告代理店で働くバリバリの会社人間であったが、物忘れが激しくなったため、妻・枝実子(えみこ、樋口可南子)に勧められ、共に病院に行く。
最終的に担当医・吉田(及川光博)から下された診断は、アルツハイマー病だった。二人はショックを受けながらも夫婦で支え合い、困難を乗り越えていく。・・・・・・
他に、一人娘・梨恵に吹石一恵、その婚約者に直也に坂口憲二、また、香川照之、大滝秀治、渡辺えり子、遠藤憲一らが脇を固める。堤幸彦、渡辺謙、坂口憲二は『池袋ウエストゲートパーク』で周知の仲である。
『象の背中』(2007年)と違い、むやみにきれいに見せることなく、背景や小物・家具類が、役者になじんでおり、違和感がない。
重苦しいテーマではあるが、そこから逃げることなく病気と対峙していく夫婦の姿は、そのまま観る側に通じる。
進行はほぼ3分割され、病名がはっきりするまでが40分、長女の挙式をはさみ孫の芽吹(めぶき)が誕生するあたりまでが72分ほどで、残り3分の1強で、その後の夫婦のありようを映し出す。そこには、まさに地獄を見るようなシーンも収められている。
キャスティングもよい。樋口可南子の謙虚にして献身的な妻の演技は、全編を通して心を打つ。大滝秀治の破天荒なふるまいもおもしろい。
それぞれ名優の演技力以上に評価できるのは、登場人物の数が、ストーリー運びに照らし、適切ということだ。役者がそれぞれ、何がしかの役割をもたされており、出演場面・出演のしかたに過不足がない。これは意外に大事なことである。
カメラも非常によい。むしろ個人的には好きな動き方や切り取り方が多い。
その動きについては、テレビで『池袋~』のような作品を作ってきた経験が、うまく活かされている。
内容や、そのシーンにふさわしく、カメラが、動き、固定され、パンする。多少技巧的な撮り方やCGも使われるが、鼻につくようなことはなく最低限度という節度が守られている。
細かいカットを畳みかけて臨場感を表わすことも忘れていない。撮影について横着でないのである。
いちばんよいと思うのは、固定カメラと手持ちカメラを、効果をよくわかって使い分けている点だ。これだけでも高評価としたい。カメラやフレームの意味をよくわかっている証拠だ。北野武のように、何でも横移動、何でも首ふりにしない。そこが素人とプロの違いだ。
例えば、後半に、病気の進んだ雅行が、帰宅した枝実子をなじり、こんな自分を置いて出て行けよ、と怒鳴るシーンがある。初めは固定であるが、雅行がキッチンの前に行き、枝実子と向き合うところから、手持ちになる。
こういう使い分けができるかどうかで、名作と凡作の分かれ目となる。
フレームの切り取り方もくふうがあってよい。
最後の診断を下される前、まだ、おそらくアルツハイマーだろうという段階で、雅行はアルツハイマーに関する本を買いあさり、自室でそれを読んでいる。そこに枝実子が来て、雅行がへやを出ようとするとき、しばらく梨恵には黙っていてくれないか、と言うと、枝実子もうなずく。
このとき二人はバストショットのツーショットだが、前後ではそうでないので、このフレームは実によく映(は)えるのだ。
さりげない会話シーン、さりげなく歩くシーンなどで、その監督のキャリアや映画への情熱、ものづくりへの誠実さが明らかになる。
映画というフィクション性に乗って、必ずしもリアルなシーンだけにしなかったのも、映画の遊び心を心得ているからできることでもある。
俳優の名演技、カメラワーク、一定のテンポをもった進みなど、いずれも好感をもてる作品である。
資金面での心配がないこともあろうが、真に映画の好きな人間が集まって出来上がった作品と言える。内容にふさわしい音楽にも注目したい。
この映画は、あえてみなさんにお勧めしたい。
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