映画 『悪名一番』

監督:田中徳三、原作:今東光、脚本:依田義賢、撮影:武田千吉郎、音楽:鏑木創、主演:勝新太郎、田宮二郎、1963年、89分、カラー。


脚本・映像・編集・殺陣のどれもすばらしい作品だ。映画というのはこういうことがたまにある。ムダのない89分で、観終わると普通に2時間の映画だったのではないかと錯覚する。


大阪・八尾の朝吉(勝新太郎)と清次(田宮二郎)の任侠物語。『悪名』(1961年)に始まるシリーズの一つ。靖国神社がセリフに出てくるところが二か所あり、そのうち初めのほうは、神門の前でのロケである。


正月早々、忘年会の客がツケを払ってくれないと聞き、いろいろ調べると、その客らは工場から満足に給料をもらっていず、工場長のところにいくと、銀行の都合で預金を下ろせなくなっているという。

二人はその銀行の支店長のところに預金者といっしょに直談判に行くが、東京で、ある男が1億円の使い込みをしたため、銀行も困っている状態だという。

二人の任侠魂に火が点き、事態をはっきりさせるため、二人は東京・品川にあるその男の家に乗り込む。・・・・・・


二人がトラックで上京すると、東京の風景が映る。東京オリンピックの前年の映画でもあり、建設中の首都高速が映るが、他にも、東京タワー、お濠と脇を走る総武線、都電の線路やトロリーバスの電線、木場あたりか材木の浮かぶ港、三輪トラックなども映り、懐かしい。男の働く場所は品川という設定で、人足は台場組と書かれたはっぴを着ており、港の風景も映るが、今の品川の港あたりとは隔世の感がある。


筋の通った任侠もので、これに対し、銀行の悪者たちは、何でも金で解決しようとする。その対比がいい。朝吉と、その男の家の親分との仁義の駆け引きもうまく描かれている。ストーリーもテンポよく進み、ひとつのシーン内での心情のやりとりが適確に描かれている。これは第一作『悪名』から引き継がれたものであろう。こうした脚本だけでなく、カメラ、編集、音入れ、それにもちろん俳優たちの演技が堂に入っていて、一流の仕上がりとなっている。


飛躍するが、この映画は、日本人、特に日本男児の本来のあるべき姿を象徴しているようでもあり、時代が下り銭カネに堕していく前の、真の極道の姿を描いているように思う。


二人が東京に来て、銀行の社長に会おうとするが、秘書(江波杏子)から、5時まで会議だと言われ、まだ4時間近くもある。そこで二人の行くのが靖国神社だ。

エキストラを配し、神門の前で、神門側からと神門に向かっての側からと、両方のカットがある。おそらく拝殿前での撮影は許されなかったので、神門前での撮影になったのだろう。


朝吉が泣きながらこうべを垂れる姿を見て、清次がわけを聞く。ここで二人は言い争いになり、これを機会に二人は別れ別れになるが、ラストに近いところで、うまい具合に再会することになる。

その再会したところで、敵とやり合うのだが、朝吉と清次が階段を降りようとすると、相手は拳銃を撃ってくる。清次が、俺が死んだら靖国神社に祀ってもらえるやろか?、と言ったのに対し、朝吉は何やと?、と返す。セリフの応酬のあと、清次が、じゃあ、二人とももし無事やったら、またいっしょに靖国神社に行きまひょな、と言うと、朝吉は無言のまま、涙をこぼす清次の顔を見つめる。


このセリフはさりげないが、一つの切羽詰まったシーンでの早いやりとりにしては秀逸だ。

全体に、セリフが力をもっており、わずかなシーンやカットでも濃いのだ。だから、観終わって89分の映画だったのかと思ってしまうのだろう。

こういう、セリフに力をもたせる脚本を書けるプロが、いまどれくらいいるのだろうか。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。