映画 『スリ(掏摸)』

監督・脚本:ロベール・ブレッソン、製作:アニー・ドルフマン、撮影:レオンス=アンリ・ビュレル、編集:レイモン・ラミー、音楽:ジャン=バティスト・リュリ、主演:マルタン・ラサール、1959年、76分、フランス映画、白黒、原題:Pickpocket


邦題は、表記のように、括弧書きで<掏摸>と付けている。

出演者は、ほとんどが素人である。ブレッソンは、どの作品でも、故意に、専門の俳優を使わない。


後に『ラルジャン』(1983年)を撮るブレッソンの作品で、『抵抗(レジスタンス) 死刑囚の手記より』(1956年)の次に作られた。

ラストは、『ラルジャン』と似ている。


貧乏な学生ミシェル(マルタン・ラサール)は、競馬場で、女のすぐ後ろに立ち、札を掏った。すぐ捕まるが、証拠がないとして釈放される。

盗んだ金を届けようと、一人暮らしの母(マム・スカル)のアパートに来たが、母は病気で寝ているらしく、階下のジャンヌ(マリカ・グリーン)という女が、時折世話をしているらしかった。友人ジャック(ピエール・レーマリ)に仕事を依頼しながらも、電車の中で、他の男がスリに成功したのを見て、自分でもさらにスリの腕を磨こうと決める。・・・・・・


ミシェルが見込まれて、ある男と二人でスリを行ない、次にはさらに三人でスリを行なう。複数で行なうスリの手口は実にみごととしか言いようがない。スリの演技指導を行っているのは、劇中にスリの頭目として登場するカッサジという男である。自らの体験が、映画に活かされているというわけだ。


本作品は、スリのシーンが出てくるが、犯罪映画というより、ミシェルという若い男の心理ドラマである。台詞以外の部分では、ミシェルのモノローグが流れる。


全編通じ、なぜかミシェルにつきまとう刑事(ペルグリ)に、彼は、スリをすることの正当性やスリの美学のような話をする。ミシェル自身は貧乏学生であり、スリは犯罪であるものの、このスリ行為の延長線上に、ミシェルの<人生>=生命=生活があるのだ。

出かけるたびに、鍵などかけないような生活、狭いひとり暮らしのアパートなど、ミシェルの生活は、貧困そのものだ。それでも、外出し、スリをするときも、ネクタイにスーツ姿なのである。


スリのプロと出会い、ジャンヌと出会い、一度パリを去ってもまた、ジャンヌの下に戻ってくる。最期にミシェルは捕まり、拘置所に入れられる。そこにジャンヌがしばしば面会に来る。二人は鉄格子ごしに顔を寄せ合い、ラストとなる。そこに、ミシェルの独白が流れる。「君に会うために、どんなに回り道をしてきたことか。」


ジャックは、人も良く、そつのない男であったが、ジャンヌと、二人の間にできた子供を置いて、どこかに行ってしまっている。

ミラノでスリを続け、結果的に無一文になってパリに戻り、何気なく、亡くなった母の住んでいたアパートに寄ると、がらんどうになったへやに、赤ん坊がいた。ジャンヌが現われ、これはジャックとの子であると言う。


拘置所にいながら、面会に来たジャンヌに、彼女とその子ともども大事にするとミシェルは言う。ミシェルとジャック、ジャックとジャンヌ、ジャンヌとミシェルの間柄は、詳細には語られない。ジャックがジャンヌに好意をもっていることも、ミシェルの台詞に出てくるくらいだ。ミシェルとジャンヌも、どう付き合って相思相愛になったかという経緯などは、全く触れていない。


ほとんどのシーンに音楽はなく、実際の音だけであり、余計なセリフ、余計なシーン、余計なカメラの動きなどは全くない。不条理なストーリーの上に、且つ、辻褄はセリフで規定していく。

登場人物に、笑顔のシーンが全くない。日常性から切り取られた映像のみで、ストーリーを畳みかけてくる。あえて素人ばかりを出演させるのも、プロの俳優固有の<演技の幅>など捨象したいからだろう。

このあたりが、ブレッソン流というのだろう。これらの方法論は、この先も彼の作品では常套となる。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。