映画 『エル・スール』

監督・脚本:ビクトル・エリセ、原作::アデライダ・ガルシア・モラレス、撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ、編集:パブロ・ゴンザレス・デル・アモ、音楽:エンリケ・グラナドス、主演:オメロ・アントヌッティ、ソンソレス・アラングーレン、イシアル・ボリャン、1983年、95分、スペイン映画、原題:(El sur=南)


これも、かつて、シネ・ヴィヴァン六本木で観た映画だ。


スペイン北部の山村が舞台。その山麓に一軒だけポツンと建つ家に、8歳の少女エストレリャ(ソンソーレス・アラングレン)は、父アグスティン(オメロ・アントヌッティ)、母フリア(ローラ・カルドナ)と住んでいた。お手伝いに、カシルダ(マリア・カーロ)もいた。家の屋上には、カモメの形をした彫刻が立っている。訪れる父の乳母は、この家を「カモメの家」と呼んでいる。

映画は、15歳になったエストレリャ(イシアル・ボリャイン)が、ベッドの中で、母とカシルダの大きな声によって目覚めるところから始まる。父親の姿が見えず、二人が大童で探しているのであった。エストレリャは、8歳のころ父がくれた振り子を取り出し、そのときのことを思うかのように手に取り、また小さな箱にしまった。

ここから回想に入り、ラストでここに戻る。

田舎ながら、つつがない日常が続いていた。ある日、エストレリャは、父の机の抽斗を見ると、イレーネ・リオスという女性の名前をたくさん書いた紙を見つける。エストレリャには聞いたことがない名前であり、母に聞いても知らなかった。学校の帰りに、映画館の前を通ると、『日陰の花』という映画のポスターが貼ってあり、そこにイレーネの名前があった。イレーネ(オーロール・クレマン)は女優だったのだ。

エストレリャは、イレーネこそ父がスペイン<南部>に関心をもつ理由かと直観したが、あえて父に、イレーネのことを聞かないでいた。・・・・・・


エストレリャにとって、父は優しい人物であったが、医師でありながら、どこか謎めいたところがあるように感じられた。イレーネという存在の意味を、初めは知らなかったが、成長するにつれ、彼女が父の愛人であることがわかってくる。しかも、父はどこかに泊ってくることが多くなり、街で父を見かけても、まっすぐ帰らず、エストレリャが陰から見ていると、バーに行き、酒を飲んでいた。父はまだ、イレーネを愛しているように思われた。


音楽は最小限にして、余計な音入れをせず、入れたとしても自然の音だけである。静かな映像と会話、モノローグが中心の映画だ。ひとりの少女を主役にするという点で、『ミツバチのささやき』(1973年)である。こちらは、『ミツバチ~』と異なり、少女と父親の物語である。

どちらも神秘的要素を含むが、『ミツバチ~』のアナは幼く、まだ見ぬものを追っていくのに対し、本作品のエストレリャは小学生の年齢から始まり、話の対象となる父親は明確な存在である。


15歳になり、父と二人きり、向かい合って食事をするシーンで、初めてエストレリャは地位に対し、イレーネのことを遠回しに尋ねる。父は多少困惑するが、その返答や態度に、エストレリャは不服を言うわけでなく、非難するわけでもない。これが、エストレリャの見た父の最後の姿であった。

父は森の中に倒れていた。わきに猟銃が置いてある。自殺し倒れているシーンが入るだけだ。なぜ、そうなったか、娘や妻に対する自責の念か、イレーネからもらった「もうやりとりしない」という手紙のせいか、説明はない。イレーネという女性はたしかに存在していたようだが、アグスティンとツーショットのシーンがあるわけでもない。


この映画では、ストーリー上、はしょったところは、観る側の想像でつないでほしい、というところが多い。また、なぜここで、父はこういう表情なのか、というところも、ふつうの映画以上に想像しなければならない。

父と娘の心の交流、というより、父に対する娘という存在の意味、を淡々と描いた作品と言えよう。


『父 パードレ・パドローネ』(1977年)や『サン★ロレンツォの夜』(1982年)といったタヴィアーニ兄弟監督映画で存在感を示した、オメロ・アントヌッティの渋い演技に注目したい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。