映画 『ミツバチのささやき』

監督:ビクトル・エリセ、脚本:ビクトル・エリセ、アンヘル・フェルナンデス・サントス、撮影:ルイス・カドラード、編集:パブロ・ゴンザレス・デル・アモ、音楽:ルイス・デ・パブロ、主演:アナ・トレント、1973年、99分、スペイン映画、原題:El espíritu de la colmena(=The Spirit of the Beehive)


1940年のとある日、スペインの田舎町オユエロス村の公民館に、巡回映画がやってきて、そこで怪奇映画『フランケンシュタイン』を上映した。

6歳のアナ(アナ・トレント)と、アナの姉・イサベル(イサベル・テリェリア)もそれを観た。

アナの家族は、姉・イサベル、養蜂業を営む父・フェルナンド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)、母・テレサ(テレサ・ジンペラ)だった。

アナとイザベルは寝室もいっしょで、いつも共に行動していた。

(※アナ・トレントが6歳だったので、俳優はみな本名をそのまま使っている。)


ベッドで向かい合い、アナはイザベルに、さきほど観た映画で、あのやさしい人(フランケンシュタイン)は、少女を殺してしまったのか、と尋ねる。イザベルは、殺してはいない、と言う。

父は蜂蜜を作るのに忙しい。母は誰か遠くにいる愛人に手紙を書いている。


姉妹は学校の授業を終えたあと、大草原に行く。見渡す限りの草原の遥かかなたに、一軒の小屋があり、二人はそこまで行って中を探るが、何もなかった。

別の日に、アナはひとりでその小屋に向かう。外に大きな靴の跡があった。

さらに別の日にそこに行くと、足にケガをした脱走兵が横たわっていた。アナは持っていたリンゴをあげるのだった。・・・・・・


主演のアナ・トレントのかわいらしい容姿が人気を呼び、小さな映画館ではあったがロングランとなった。

しかし、この映画は、おもしろおかしい映画ではなく、少女をモチーフにしたシリアスな映画である。

夜や暗がりのシーンが多い。明るく無邪気な昼の世界は、未知に向かう好奇心のほの暗い夜や闇の世界と、対比されている。


タイトルロール・エンドロール以外ではほとんど音楽も入らず、自然の音が生かされる。ミツバチの羽音、汽車の汽笛や走り抜ける音、手紙を書くときのペンの音、木々が風にざわめく音・・・。例外は父の懐中時計で、開くと音楽が鳴る。

当時は、少女の内面の物語としての印象しかなかったが、今度観てみて、この映画は、全編に、隠喩(メタファー)や暗示が散りばめられていることがわかる。


これはすべて、当時のフランコ政権に対するアンチテーゼだ、とするのが定説のようだが、それを知らなくても、いや、そういう定説とは別に、この少女の生活自体が、メタファーや暗示に彩(いろど)られているということなのだ。

それゆえ、アナの日々の時間は、イザベルとの時間でもあり、父・母との時間でもあり、フランケンシュタインとの時間でもあり、小屋で見つけた脱走兵との時間なのである。


アナはまだ幼く、映画を観たあとのように、映画の内容にも、イザベルの死んだふりのいたずらにも騙される。無垢であり正直であり、自らの世界に舞い込んだ対象すべてに対し、ピタリと寄り添うように対峙する。

アナの世界は、日常空間を通じて、イザベルはもちろん、厳格な父や、美しい母のいる静かな環境から生まれてきたものなのだろう。

一見アナとは無関係の出来事が挿入されているようで、父や母の存在は、家という空間を通じ、好奇心がいざなうアナの世界と、つながりをもっているのだ。


陳腐な言い方をすれば、この映画に現れるのは、アナの日常の時間・空間という「現実」なのである。

アナの現実(リアリティ)は、微妙に姉とも違い、父や母といった大人たちとも違う。

冒頭に、映写機などを積んだトラックがやってくる。子供たちがそこに集まり、はしゃぎまわる。

その映画『フランケンシュタイン』は、後に、アナの想像として再度出てくる。アナにとって、映画の世界もまた、リアリティとして心に貼りつくのだ。


アナの心情を表すのに、シーンの積み重ねをおこなっている。それが父や母のシーンでもある。積み重ねられるシーンは、どれも印象的で、冴えた美しさがある。

セリフの多くないこの映画で、この映画を生かすも殺すも、畳みかけてくるこれらシーンの選択による。

線路に耳を当てて、もうすぐ汽車が来る、と言うシーン、アナが小屋で脱走兵に、無造作にリンゴを差し出すシーン、置き物のような網の張られた容器に入れられたミツバチをアナが眺めるシーン、などがその例だ。


殺された脱走兵の所持品から、アナの父フェルナンドが呼ばれる。脱走兵は、父の懐中時計と上着を持っていたからだ。それを脱走兵にあげたのは、アナであった。

父に叱責されて家出をしたアナは、衰弱してベッドに横たわっている。

やがて、アナは再び小屋に行く。そこには(当然ながら)脱走兵の姿はなかった。

この終わり方も、一定の起承転結をもたない道筋の作品にふさわしい。


深夜など静かな時間に、アナという幼女の世界に浸ってみるのもいいかも知れない。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。