映画 『愛の渦』

監督・脚本・原作:三浦大輔、撮影:早坂伸、編集:堀善介、照明:神谷信人、美術:露木恵美子、音楽:海田庄吾、主演:池松壮亮、門脇麦、新井浩文、2014年、123分。


第50回岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・三浦大輔の同名戯曲の映画化。

登場人物は12人で、そのうち男4人、女4人が「舞台」の中心となる。

着衣のシーンが18分しかない、とのキャッチフレーズのとおり、ほとんどのシーンは、からだにタオルを巻いているか、全裸のシーンだ。


カネを払って、あるマンションの一室に、顔かたちも職業も異なる、他人同士の男女が4人ずつ集まる。そこでは、午後11時から翌朝5時までの約束で、乱交パーティが開かれるのだ。

全員が集合したところで、店長が注意事項を話すと、いよいよ始まるが、初めはみんな、およそセックスとはほど遠い、さりげない会話しか交わせないでいる。

やがて、フリーターの男(新井浩文)がひとりの女を誘ったのをきっかけに、ベッドが4台並んだ下のへやに行き、行為することになる。

最後に残ったニート(池松壮亮)と女子大生(門脇麦)は、残った者同士で、下のへやに行く。


一回戦が終わって、またへやに戻ると、さきほどよりはみんな、打ち解けた雰囲気になるが、次第に陰口を叩き合ったり秘密をばらし合ったりと、醜い会話も出てくる。

二回戦も終わったところに、カップルの男女が、互いの愛を確かめ合うためということで、後から参加する。・・・・・・


性欲をテーマにした会話劇であるが、これをテーマにした人間の断面同士の「こすれ合い」を描いており、セックスはそれ自体が逆メタファーになっている。

つまり、ある表現や描写でセックスを暗示するのではなく、逆に、セックスやその前後の会話や行動の描写によって、人間や男女といったもののもつ、ふだん隠されている断面がえぐり出されてくる、というわけだ。

といっても、それは哲学的な命題のような難しいものではなく、日常の微細な心理やかけひきである。


舞台が元にあるせいか、舞台でなら許される間合いなどをそのまま映画にも使っているので、やや沈黙が長いなと感じるのを否めないシーンが多い。

しかしそれだけに、神経質なほどに演出が行き届いていて、観る側を飽きさせないのも事実だ。

それはカメラにも言えることで、へやの隅からの俯瞰、上から・横からのカメラ、顔のアップなど、いろいろなヴァリエーションを使いながら、しかもその撮り方に、映像としての効果がある。

いわば密室劇であるから、当然、カメラは縦横に動かなければならない。その課題はクリアされている。横移動が無理なぶん、パンをよく使っているのもよかった。


俳優は若い役者が多いが、裸のシーンが多いのと裏腹に、顔の表情や発声に意味があるので、かなりリハーサルして臨んだに違いない。

とりわけ新井浩文の演技が秀逸だ。この「舞台」の牽引役でもある。

今までも崩れた男の役柄が多いが、からだの傾け方、腕の位置から目玉の動きまで、照明を計算に入れて演技している。

途中に怒るシーンがあるが、それまではにやにや笑うシーンが多い。新井浩文が笑うところは、あまり見ることができない貴重なシーンだ。それも、こういう場における好色な笑いだけでなく、シーンに応じ、笑いを替えているところも見事だ。


主役はニート(池松壮亮)と女子大生(門脇麦)であるが、これは他のメンバーの中にあって、意味をもつような仕掛けになっている。

翌朝の出来事についても、そこに意外な展開や決めぜりふがあり、このニートがひとり寂しく歩き去るラストは、まさにこのニートが二万円と引き換えた、ひと晩の充実感と虚無感を、二重写しにしている。


こうした「人間ドラマ」は、レビューするには注意が必要だ。

レビューの内容によって、どのくらい映画を観ているか・どういうふうに観ているか、という見識まで、曝け出してしまうからである。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。