監督:降旗康男、脚本:竹山洋、降旗康男、撮影:木村大作、編集:西東清明、音楽:国吉良一、主演:高倉健、田中裕子、2001年、114分、東映。
『夜叉』(1985年)と、監督・撮影・主演二人が同じである。
桜島を望む鹿児島県垂水市(たるみずし)の海潟(かいがた)漁港を主な舞台とし、そこを生活の糧とする山岡秀治(高倉健)・知子(田中裕子)夫婦の物語。秀治は漁師である。
秀治は、戦争末期、神風特攻隊の一員であったが、出撃寸前に終戦となった。知子には、当時、秀治の先輩に当たる金山文隆(キム・ソンジェ、김선재、小澤征悦)という恋人がいたが、金山の散華により、その後、秀治と結婚した。
秀治と同じ隊の藤枝洋二(井川比佐志)は、雪深い青森から、孫娘の藤枝真実(水橋貴己)とともに、知覧に来ていた。そこで、久しぶりに、当時、「特攻の母」と言われた山本富子(奈良岡朋子)に会う。
秀治は、藤枝が九州に来ていたことを知るが、藤枝が秀治の家には寄らず青森に帰ってしまったことで、水臭いやつだ、と思っていた。・・・・・・
言うまでもなく、山本富子は、鳥濱トメであり、富子のいる食堂は「富屋食堂」である。ここも数回登場する舞台であり、前半で、富子が藤枝に思い出話をするとき、ホタルの話が出てくる。
『夜叉』とは、テーマが全く異なるので、比較することはしたくないが、映画として、内容柄、当然のことながら、徹底してシリアスな仕上がりとなったぶん、エンタメ性は控え気味になってしまった。若い漁師らが登場するシーンや、大事にしていた船を燃やすシーン、不法入国者が岩場に隠れているシーンなど、いくつかの材料はあったが、本筋を揺らがせたくないとの配慮から、それらは小出しにされるだけで、ストーリーに味付けするほどの効果はなかった。
ストーリーの揺れとして提供されたのは、知子の体調と腎臓の病気のことであり、このことで交わされる夫婦の会話や心情である。
また、藤枝の前半からの登場にはそれなりの理由があり、後半の展開にも多少影響を及ぼすことを考慮したからであろうが、ならば、もう少し、藤枝にも寄り添った脚本があってもよかっただろう。
当時のシーンは、そこだけ白黒とし、現在との対比をわかりやすくしている。断片的な当時のシーンだけで、当時の隊員たちの緊迫感や複雑な思いが伝わるか、といえば、なかなか難しいが、それをわかっているだけに、金山を軸とし、それ以外に人物を登場させず、彼の知子に対する心情と故郷である韓国への思いに絞ったのは理解できる。
終盤では、秀治・知子は、富子に懇請されたこともあり、金山に託された遺品を、韓国の山村である金山の故郷に届ける。村人らの対応は厳しいものだったが、最後は長老の老婆が、それをありがたく受け取る。
テーマがテーマだけに、映画としてのおもしろみといったものは抑えられてしまったが、『夜叉』同様、カメラは、カンパチを釣り上げるシーンなど美しい漁港や風景を、忍耐強く待って撮られたところが多く、抑制された要素は、映像で楽しむしかない。
あえて言えば、人々の移動のシーンが、ワンショットも入らず次のシーンに移るところがあり、時間が均等に進んでいるとは思えない編集となっているところが散見される点は惜しいと思う。
この映画について、思想的な見地から、いろいろな意見があったようだが、戦後、映画や演劇にかかわる人々の大半は、監督であれ、スタッフであれ、俳優であれ、みな左翼思考の持ち主である。むしろ、右傾思考のほうが少なく、ヤクザ映画やロマンポルノなどの製作にかかわる人々だけだ。例えば、松竹の看板映画となった『男はつらいよ』シリーズにしても、山田洋次をはじめ、渥美清以外の俳優はほとんどが共産党員か共産党支持者であり、マドンナ役の吉永小百合、樫山文枝、長山藍子などもそうである。
映画を通じて、朝日が視聴者を洗脳しようとしている、とまで言われている。この作品が公開された当時は、慰安婦問題など、朝日の捏造はバレていなかった。洗脳材料に映画や監督を利用したのではないか、とも言われる。
映画ファンとしては、あくまでも、作品としてどう評価できるか、という視点にのみ立つべきであり、思想云々を持ち込むのは、映画ファンとは言えない。ストーリー展開、カメラワーク、編集、美術、音響、演技、演出などで、そのエンタメ性や質について語るべきである。私自身は保守側の人間であるが、作品を味わい、作品としてどうなのか、という見方ができなければ、映画のレビューなどすることはできないのではないか。
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