監督:降旗康男、脚本:中村努、撮影:木村大作、編集:鈴木晄、音楽:佐藤允彦(まさひこ)、トゥーツ・シールマンス、主演:高倉健、田中裕子、1985年、128分、東宝。
ヤクザ映画一筋と言っても過言でない監督と、その作品に多く出演している高倉健、撮影もよく組む木村大作で、息の合った仕上がりになるのは言うまでもない。降旗は他に、岩下志麻主演『新・極道の妻(おんな)たち 惚れたら地獄』(1994年)や、同じ岩下主演で、近親相姦を題材とした『魔の刻(とき)』(1985年)なども撮っている。
若狭湾敦賀の小さな漁港に、蛍子(けいこ、田中裕子)という女が子連れで訪れ、「蛍(ほたる)」という飲み屋を始める。漁師のあらくれ男たちは、蛍子の色っぽさと愛想のよさに、毎晩のように通うようになる。そのなかには、その村で中心的な存在である修治(高倉健)や仲間の啓太(田中邦衛)もいた。そんな男たちの道楽を、修治の妻・冬子(いしだあゆみ)や啓太の妻・とら(あき竹城)は呆れ顔で見守るだけであった。
ある日、矢島(ビートたけし)がこの漁村にやってきて、蛍子の店に居つくようになる。矢島は店を手伝いながら、漁師仲間にも人気を呼ぶが、その実、蛍子のひも同然のヤクザでありシャブ中で、大阪からブツを仕入れては、こっそり漁師仲間に売っているのであった。・・・・・・
大阪ミナミから流れてきた蛍子を、金づるとして追ってきた矢島。今はカタギとなっている修治は、啓太らの異変に気が付いて、あるとき矢島と口論するが、矢島は態度を改めようとしない。矢島のだらしなさに愛想のつきた蛍子は、ある晩修治に言われて、届いたばかりのヤクを、全部捨ててしまった。それに気が付いた矢島は、出刃包丁を持って、蛍子を殺そうと村じゅうを追いかける。
ようやく店に戻って奥にいる蛍子に、矢島は甘えるが、そこに修治が現れたとき格闘となり、矢島が修治の背中を切りつけると、そこにはもみじに囲まれた美しい女夜叉の顔の入れ墨があった。
矢島が言った、なんだ、オマエもヤクザじゃねえか…今まで村人にも隠してきたことが騒ぎで駆け付けた村じゅうの連中にばれてしまい、そこにいた冬子がコートを背中にかけて、入れ墨を隠した。
雪の漁村の風景、凍てつく道路、時化(シケ)た海、押し寄せる白波、港にかかる橋、それぞれの生活の場所、漁船や漁具、漁に出ていく船の群れ、和装のわけあり風な女、熱燗、おでん、…望遠と接写を駆使した実にリアルな描写とカメラどりで、あたかもそこにいるかのような錯覚さえ覚える。酒の匂い、おでんの匂い、魚の匂いがしてきそうであり、軽い濡れ場でも女体の匂いが伝わるようだ。
矢島は結局、ヤクの代金を払えず、こっそり村に戻って蛍子に無心するが、有り金全部渡しても、まだ足りないという。蛍子はしかたなしに、すでに情を通じている修治の家へ来る。冬子の猛反対を押し切って、修治は矢島の身柄を引き受けに、大阪ミナミに出向く。彫り物が抜けないように、修治の心に眠っていた夜叉が動き出したのである。
こういう映画、好きよ!こういうのが日本の映画なんだよ!
ちょっと狙いすぎの映像もあるが、しかし日本の漁村の雪の風景が美しく、任侠ものを知り尽くした監督に、美酒をごちそうになった気分になる。大阪ミナミのヤクザ、敦賀湾の小さな漁港と漁師たち、流れてきた色っぽい飲み屋の女、と、材料は整いすぎるくらいだが、それだけに終わらせないのが脚本のうまいところだ。
修治の過去の立ち回りなどのシーンが適度に挿入される。現在の部分でも、女たちのエピソードや、修治の家族のようすなどが挟まれ、ストーリーに厚みを増している。それに貢献しているのは、演技達者の配役陣だ。
ミナミで修治が会う親分の代理に寺田農、その直前に挨拶にいく今は亡き親分の妻に奈良岡朋子、大阪時代の冬子が勤めるレストランの主人に大滝秀治、冬子の母親に乙羽信子、ヤクの運び屋として駅で修治に捕まる元修治の子分トシオに小林稔侍、回想シーンで登場する修治の妹に壇ふみといった具合だ。
高倉健はさほど好きな俳優でもないが、鍛えられたせいもあるだろう、こういう役柄はうまいもんだ。いしだあゆみも上手だし、まだ俳優としては駆け出しであったビートたけしの、粗暴で無骨だが甘ったれで情けない存在感もいい。
しかしやはり本作品は、蛍子のいでたちや表情が勝負となる。田中裕子は特段別嬪というほどでもないが、鼻につかない可憐な色気があり、表情やしぐさの演技力は確かだと思う。
『天城越え』での彼女を見るといい。あれは天城峠が舞台であったが、ここでは、漁師町の飲み屋の女、ヤクザと切れない女になり切った演技を披露している。
これらのシーンを彩る音楽は、哀感あふれるジャズ調の音楽で、佐藤允彦の得意分野である。
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