映画 『セブン』

監督:デヴィッド・フィンチャー、脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー、製作:アーノルド・コペルソン、フィリス・カーライル、撮影:ダリウス・コンジ、編集:リチャード・フランシス=ブルース、美術:アーサー・マックス、音楽:ハワード・ショア、オープニング・クレジット:カイル・クーパー、スペシャルメイクアップ:ロブ・ボッティン、主演:ブラッド・ピット、モーガン・フリーマン、1995年、127分、原題:Seven(劇中の表記は Se7en )


『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)で有名なデヴィッド・フィンチャー監督が、その人気を不動なものにした作品だ。


定年を一週間後に控えた刑事ウィリアム・サマセット(モーガン・フリーマン)の元に、若い刑事デビッド・ミルズ(ブラッド・ピット)が異動でやってくる。

ミルズが転任早々、殺人事件が発生し、二人は現場に向かう。これ以上ないほど肥満した男が、座ったまま両手両足を縛られ、テーブルに置かれたスパゲッティの皿に、顔を突っ込んで死んでいた。次いで、高名な弁護士が仕事場で殺害された。床には血文字で、「GREED(=強欲)」と書かれていた。

サマセットは、キリスト教に言う「七つの大罪」、即ち、大食(gluttony)、強欲(greed)、怠惰(sloth)、色欲(lust)、高慢(pride)、嫉妬(envy)、憤怒(wrath)を同期とする猟奇連続殺人を想定する。・・・・・・ 


ネタバレしないようにと、犯人であるジョン・ドゥ役のケヴィン・スペイシーの名前は、オープニングタイトルでは出さず、エンディングで最初に出している。エンディングは、下から上へロールしていく。

ジョン・ドゥとは、名前が分からない人物を、仮に呼ぶ場合の名まえで、日本であれば、「名無しの権兵衛」である。


日本での公開時、映画館で観て以来、幾度となく鑑賞してきた映画だ。

独特の映像、暴力的な場面転換、薄汚い街や室内、光の当たりにくい脇道や路地、暗い室内など、映像ですでに、内容の異様さ・寒々しさを暗示している。フィンチャーの場合、特に変わったカメラワークはないものの、「見せる」ということで、自らの映画の<カラー>を出している。『遊星からの物体X』(1982年)で知られるようになった、ロブ・ボッティンによる特殊メイクも効いている。

猟奇殺人を、青空や山や海といったきれいな風景を一切入れず、ざらついた痛々しい映像で撮り切るというのも個性的だ。フィンチャーならではの独特の色調によって紡がれた独特の映像世界は、映像とは美しいものという固定観念をひっくり返す。といって、丸ごとホラーではなく、それは、人間の知性と幸福観という一定基準の良識の下に、築き上げられた宇宙なのである。


ジョン・ドゥの異様な犯罪に付き合わされるかのように、サマセットとミルズは捜査に当たっていく。図書館の借り出しカードから、犯人らしき人物が割れ、二人がそのアパートに行くと、いきなり撃たれる。まさに、この男が犯人だったわけだが、二人をはじめ警察がこの男の室内を調べているとき、ジョン・ドゥから電話があり、今日の捜査は予定外であったので、計画を変える、と告げて、一方的に切った。

ここから、ミルズにとって、まだ知らぬ最大の悲劇が始まる。


ストーリー展開は、事件解決に向けての二人の動きが中心となるが、定年間近のサマセットと若いミルズとのやりとりや、ミルズの妻トレイシー(グウィネス・パルトロー)とサマセットの会話なども入り、薄汚い犯罪捜査の合間に、コーヒーブレイクのような役割をもって挿入されている。そして、これらエピソードも、ラストの向けてのストーリーに厚みをもたせている。


カイル・クーパーによるオープニング・クレジットは独特であり、このシークエンスが映像関係者に与えた影響は大きかった。カイル・クーパーは、映画のタイトルバック映像を制作するモーション・グラフィック・デザイナー。 

オープニングクレジットで流れる音楽は、ナイン・インチ・ネイルズの「クローサー」のリミックスヴァージョンである。


署長役で、R・リー・アーメイ、マーティン・タルボット検事役で、リチャード・ラウンドトゥリーが出ていることにも注目したい。

日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。