監督:今村昌平、脚本:山内久、撮影:姫田真佐久、編集:丹治睦夫、美術:中村公彦、照明:岩木保夫、録音:橋本文雄、音楽:黛敏郎、スチール:斎藤耕一、主演:長門裕之、吉村実子、1961年、108分、白黒、日活。
戦後間もない横須賀が舞台。横須賀には、米軍の艦船がよく寄港し、街中にも米兵がたくさん闊歩していた。
欣太(長門裕之)は、やくざ組織の兄貴分・鉄次(丹波哲郎)の末端のチンピラで、星野(大坂志郎)、大八(加藤武)、軍治(小沢昭一)と行動をともにしていた。
米兵を引いて女を抱かせ、ピンハネをしていた欣太だったが、このままではいつまでもうだつが上がらないとして、組織の一員として、「豚係」となる。「豚係」とは、米軍の艦船で出た残飯を、養豚場のブタの餌に卸すことで、中間マージンをとるということだ。
一方、欣太には、思いを寄せる春子(吉村実子)がいた。春子の母(菅井きん)は小さな飲み屋をしており、それだけでは食べていけず、姉の弘美(中原早苗)は米兵のオンリーとなっており、母は春子にもその道を進み、家の助けになってほしいと願っていた。・・・・・・
鉄次の愛人・勝代に南田洋子、組織の中堅幹部・日森に三島雅夫、欣太の父親に東野英治郎、鉄次の弟・菊夫に佐藤英夫、ほか、西村晃、初井言栄、殿山泰司、武智豊子らが出演し、この頃の映画俳優陣の層の厚さを感じられる作品でもある。
長門裕之、27歳、吉村実子、17歳のときの作品で、吉村実子にはデビュー作となり、その後、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『鬼婆』(1964年)といった名作に出ることになる。
ストーリー展開は、登場人物の多いわりにわかりやすい。ヤクザ仲間の豚係である欣太と、春子の恋人としての欣太が、きちんと描き分けられている。ヤクザ稼業から足を洗ってほしいと願う春子と、ヤクザ稼業でも、金持ちになって春子を幸せにしてやりたい欣太とは、衝突することもままあるが、最後には、欣太は足を洗う覚悟を決める。
しかし、それは叶わぬ夢となり、内部抗争に巻き込まれるかたちで、最後は便器に顔を突っ込んで死んでしまう。
春子は、欣太の亡骸を認めると、オンリーにもならず、川崎で働くため、ひとり、横須賀駅に向かうところでエンディングとなる。ラストシーンは、横須賀駅と港を俯瞰するカメラだ。
映画冒頭、この作品は架空の物語である、と出るが、戦後のある時期の日本の風景を描いた作品であることに違いはない。
ヤクザ稼業といえども、横須賀という街の底辺に、必死に生き抜こうとする若者がいる、男がいる、女がいる、家族がいる。この映画からは、人々の活気がリアルに伝わってくる。
カメラは、俯瞰や、冒頭近くの長回しなど、真上からの撮影やそれを回転させる編集など、おそらく当時としては、あまりなかった手法がとられているところがある。横須賀は坂道や小山の多い土地柄でもあり、その傾斜をうまく活かしたシーンも多い。
内容柄、暗い悪事の連続や暴力シーンばかりかといえば、そうでもない。
鉄次は、実質的に親分でありながら、胃潰瘍を患っており、寝たり起きたりするシーンが多い。ヤクザの兄貴分が、すでにストーリー上、ずっこけているのである。
全員集まった飲み会で、豚の丸焼きを食べた鉄次が、固いものを吐き出す。ある殺しをしたあと、それを豚小屋の土中に埋めろと言われた大八が、埋めるのが面倒くさくなり、遺体を解体して豚の餌にしたので、それを食べた豚が、料理に出てきたというわけだ。
大八が言う、「あの豚、頭から食いやがったな」
ここは思わず笑ってしまう。
こうして、笑いをとるシーンもいくつか挿入され、任侠的な堅苦しいヤクザ映画にはなっていない。
本作品の力強さとユーモアの演出は、 『復讐するは我にあり』(1979年)に引き継がれている。
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