監督:ロマン・ポランスキー、脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ、撮影:ギルバート・テイラー、編集:アラステア・マッキンタイア、美術:ヴォイテク・ロマン、音楽:クシシュトフ・コメダ、主演:ライオネル・スタンダー、ドナルド・プレザンス、フランソワーズ・ドルレアック、1966年、112分、モノクロ、イギリス映画、原題:Cul-de-sac(行き止まり)
ロマン・ポランスキー、33歳、『水の中のナイフ』(1962年)から4年後の作品。
ライオネル・スタンダー、58歳、ドナルド・プレゼンス、46歳、フランソワーズ・ドルレアック、24歳のときの作品。
フランソワーズ・ドルレアックは、カトリーヌ・ドヌーヴの姉である。この映画公開の翌年1967年、交通事故により25歳で死去している。
満潮には孤立してしまう海岸線の一角にある、城のような古い館が舞台。
どこからか逃げてきたかのような薄汚い恰好をした男(リチャード、ライオネル・スタンダー)は、相棒の男(アルバート、ジャック・マッゴーラン)に車を運転させるが、途中、車が動かなくなる。アルバートは重傷を負い、歩くこともできない。リチャードも、右腕を負傷して包帯で吊っているが、ひとり、人家を見つけようと歩くうち、海岸脇に聳える古城のような建物に出くわす。
入口を昇り、ようすをうかがうと、そこには、中年の男ジョージ(ドナルド・プレゼンス) と、それに似つかわしくない若い妻テレーザ(フランソワーズ・ドルレアック)が住んでいた。拳銃で夫婦を脅し、男は二人を言うなりにさせていく。
リチャードらは、ある悪事をはたらいたようだが、ここまで失敗して逃げてきたのだった。
車に残したアルバートを助けに行くべく、リチャードは夫婦を急かした。潮が満ちてきて、車は水没しそうになっており、三人で城近くまで押すことになる。・・・・・・
サイコスリラーというジャンルに分けられるが、実際に観ていると、不条理演劇のような映画である。目の前で繰り広げられる出来事は平板だが、どうしてそうなのか、と問われると、不条理な理屈しか思い浮かばない。
リチャードに拳銃で脅されているとはいえ、ほとんど怒りもしないジョージ、別の男と密会しているテレーザ、家の中を家探しされても、特に動じない夫婦、・・・常識的な感覚ではありえそうもない不可解な言動は、最初から最後まで描かれつづける。
リチャードは粗野だが、間の抜けたところもあり、テレーザは年上の夫に愛想を尽かしているような気配があり。ジョージは、財産を投げ打ってこの館を購入して絵を描くことに喜び見出したとはいえ、テレーザの前では、谷崎潤一郎『痴人の愛』において、ナオミに翻弄される河合譲治のような存在である。
ポランスキーの狙い、というより、彼が描きたかったのは、こうした不条理な現象なのであろう。それゆえ、これは虚構というカタチ、即ち、映画というものでしか、表現できないのである。
観客は、ハラハラさせられる、というよりむしろ、イライラさせられるだろう。また、なぜ彼または彼女は、これこれしないのか、という疑問が次々に出てくるだろう。
そうやって、観客をしてイライラさせたり、疑問だらけにさせたりするのが、ポランスキーの狙いなのであり、そうなった観客こそ、彼に<乗せられて>しまっているのである。
0コメント