監督:ロマン・ポランスキー、脚本:イエジー・スコリモフスキ、ロマン・ポランスキー、ヤクブ・ゴールドベルク(英語版)、撮影:イエジー・リップマン、編集:アリナ・プリュガル=ケトリング、音楽:クリシトフ・コメダ、主演:レオン・ニェムチック、ヨランタ・ウメッカ、ジグムント・マラノウッツ、1962年、94分、ポーランド映画、ポーランド語、モノクロ、原題:Nóż w wodzie
『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)、『チャイナタウン』(1974年)、『戦場のピアニスト』(2002年)などで知られるポランスキーのデビュー作品。
アンジェイ(レオン・ニェムチク)と妻クルィスティナ(ヨランタ・ウメッカ)は、湖でヨットを浮かべて休暇を過ごすため、車を走らせている。
しばらく行くと、青年(ジグムント・マラノヴィチ)が前に立ちふさがり、注意した上で、車に乗せる。青年はヒッチハイクしていた。
湖に着くと、夫婦は自家用のヨットを出す準備をするが、アンジェイの招きで、青年はいっしょにヨットに乗り込む。・・・・・・
タイトルにあるように、ナイフは出てくるが、途中で海に落とされてしまう。それでも、そこまでにときどき出てくる青年の持ち物である一本のナイフは、象徴的な意味をもたされている。
映画全体の印象としては、若い監督の作品によくあるように、予算が限られており、豪華なセットが用意されているわけではない。ヨットの甲板とその船室が主なシーンで淡々と話が進むだけであり、ダイナミックな展開があるわけではない。
やや倦怠期にあるような夫婦は、妻のほうが若く、豊満な肢体をもつ。夫の仕事などは一切語られないが、ある程度の社会的地位と財産があるようだ。
一方、ヒッチハイクの青年は、その名前も出てこず、アンジェイにガキなどとも呼ばれるが、そこまで子供ではなく、といって大人になりきっている年齢でもない。一度、19歳というセリフが聞かれる。
アンジェイは帰ろうとする青年を、無理やり誘い、自慢のヨットに乗せた。カネのない若造に、いいとこを見せてやろうというくらいの気持ちがあったからだ。だから、ヨットの操舵について、素人の青年に、ああしろこうしろと、船長よろしく命令する。
青年は、命令されるのを不愉快に思いながらも、それに従い、そのうちヨット乗りも楽しいと思うようになる。その間、クルィスティナの作る料理を楽しんだりし、彼女はひとり泳いでワニの形をした浮き輪と戯れる。
ヨットが浅瀬に乗り上げて動かなくなったその嵐の晩も、船底のへやで、三人で子供じみたゲームなどをして楽しむ。
あすは5時に起きようと言って、目覚まし時計をセットしたものの、朝になると5時前にすでにクルィスティナは起きて甲板でタバコを吸い、そこに青年も起きてくるが、あとから起きてきたアンジェイに甲板掃除を命令され、掃除しているうちに、ちょっとした口論から、青年は水の中に落とされてしまう。
責任を感じて青年を探しに湖に飛び込んだアンジェイは帰らず、それをブイの陰で見ていた青年はヨットに泳ぎ着く。泳げないと言っていた青年は、実は泳げたのであった。クルィスティナは、嘘をついていたことで青年にビンタを喰らわすが、その後二人は求め合い、抱き合ってしまう。
この映画は、大人の男と青年との対比を描いているとするなら観やすいかも知れない。
ヒッチハイクをしている青年がナイフを持っていてもおかしくない。実際、森のなかでは役に立つんだ、というセリフもある。
青年が大人に刃向かうとき、文字通り、このナイフを持つことでバランスがとれる。権力、財産、社会的地位、…そうしたものをもつ大人の男に対して、それらの何もない貧乏な青年は、ナイフをもつ。このことは象徴的だ。
アンジェイは、そうしたものをすでに手に入れている壮年の男だ。だから、ナイフのかわりに、高級車や自家用ヨットを持つ。
だが、ヨットの上という閉じられた空間で三人しかいないのでは、青年の所有するナイフは無意味にして不気味であり、5時前に起きた時、アンジェイは、テーブルにあった青年のナイフを、自分の着るガウンのポケットにしまって甲板に上がり、青年に掃除を命令する。まさに、そのとき、青年がナイフを返してくれと言ったことから、揉み合いになるのだ。
クルィスティナは、夫の小心さや意気地のなさ、そのかわりにそれを隠そうとして高慢にふるまうような態度に、辟易している。それは、ファーストシーンで、車を交互に運転する夫婦のツーショットからも、はっきりわかる。
アンジェイと青年の間にあって、アンジェイの身勝手さをなじりながら、青年にはその幼さを指摘する。ただ、アンジェイがいなくなったところで、青年とは過ちを犯す。
算術のようには行かない男女の仲を、シンプルなストーリーで展開させている作品だ。
ある船乗りの話が、途切れ途切れに出てくる。酒瓶を割って床に飛び散った破片の上を、誤って踏んでしまったという。ところがその男の足は皮が厚かったので、足裏にはけがをしなかった。それどころか、これは実は俺の芸のひとつでわざとやったんだと言ったという。
このエピソード風の話は、夫の心理や性格と並行して時折出てくる。しかしラストでこの話が出たとき、その男はしばらく陸に上がっていたことを忘れていたのだ、とアンジェイは話す。つまり、そのとき男は、足に大けがをしたということだ。ラストでのアンジェイの立場を象徴するかのような挿話だ。
ストーリー展開と同時に、本作品で見逃してはならないのは、カメラワークである。冒頭の車が走るシーンでは、フロントガラスの外から撮り、そこに過ぎていく樹木が映る。船着き場など屋外のシーンや、ヨットから見える景色のシーンの構図が美しいが、注視すべきはフラームワークだ。甲板上と船室内という限られた空間では、奥行きある立体的な構図を次々に見せてくれる。また、その都度のカメラアングルもよく、ヨット上では、真下から帆を見上げたり、帆の上から真下の甲板を見下ろしたりとヴァリエーションンに富んでいる。
この映画には無駄がない。映像もシャープであり、いろいろな苦労も想像できる。映像のあちこちに出てくる「尖った物」が、この映画をまさにシャープなものにしている。それは、ヨットの舳先であり、帆であり、ナイフでもある。
音楽はジャズが使われ、ヨットでの休暇という図式でありながら、雰囲気として決して陽気なものではなく、どこか常に不安やサスペンス感を漂わせるこの作品に、よくマッチしている。
後の、ポランスキー特有のサスペンスタッチではあるが人間ドラマである、という個性が、すでに萌芽として見られる作品だ。
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