映画 『灰とダイヤモンド』

監督:アンジェイ・ワイダ、脚本:アンジェイ・ワイダ、イェジー・アンジェイェフスキ、原作:イェジ・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』(1948年)、撮影:イエジー・ヴォイチク、編集:ハリナ・ナヴロツカ、音楽:フィリプ・ノヴァク、ボフダン・ビェンコフスキ、主演:ズビグニェフ・ツィブルスキ、1958年、99分、モノクロ、ポーランド映画、配給 NCC、原題:Popiół i diament(=灰とダイヤモンド)


あらすじは以下のとおり。

第二次世界大戦終結直後のポーランドの地方都市が舞台で、時間としては、その日の午後から翌朝にかけてのストーリーである。

ドイツ軍が降伏した1945年5月8日午後、マチェク(ズビグニェフ・ツィブルスキ)とその先輩格であるアンジェイ(アダム・パヴリコフスキ)は、ある人物を狙撃して殺すため、小さな教会の前で待ち伏せしていた。二人は戦中より、終戦後、ポーランドがソ連の傘下に入ることに抵抗するレジスタンス運動をしてきており、ロンドンのポーランド亡命政府の指示で、もうすぐこの地にやってくる共産党の県委員会書記のシュチュカ(ヴァツラフ・ザストシェジンスキ)を暗殺しようとしていたのである。予定通り車が来たので二人は銃を乱射し、車の二人は死亡したが、どちらもシュチュカではなかった。

この地の市長の秘書でありながらレジスタンスにも情報を流しているドゥルノフスキ(アボグミウ・コビェラ)から、その夜開催される市長主催の終戦記念パーティに、シュチュカも招待されている、と聞いたアンジェイは、計画を練り直し、上層部の指示で自分は残れないので、マチェクにシュチュカの殺害を依頼し去って行く。マチェクは、シュチュカの泊まるそのホテルの隣室にへやをとり、機会をうかがうことになる。

一人になったマチェクは、ホテルのバーのカウンター内でひとり働くクリスティーナ(エヴァ・クジジェフスカ)に一目惚れする。強引に誘いをかけ、へやにいるから仕事を終えたら来てくれと言い残す。予想に反し、クリスティーナはマチェクのへやに来た。肌を重ねた二人は外に散歩に出、古い廃墟のなかで語り合う。恋する思いを知ったマチェクは、任務を忘れ、いままで抵抗運動にしか生きてこなかった自分に気付き、人生の新たな意味に目覚める。しかし、ホテルに戻るとアンジェイの姿があった。アンジェイはマチェクが任務を遂行するかどうか確認しに戻ってきたのであった。否応なしに、マチェクは任務遂行を決意し、クリスティーナに、あす朝早くここを出る、と告げる。

夜明け近く、ようやくパーティが終わるころ、休んでいたシュチュカに、17歳の息子マレクがレジスタンス運動で逮捕されたとの連絡が入る。迎えの車が来ると知らされながら、長年会っていない息子への気持ちが逸(はや)り、ホテルの外へ歩き出したところで、マチェクに撃たれて死亡する。

マチェクは近くの駅に向かう。駅の近くでマチェクは、アンジェイが、パーティで不品行をはたらいたドゥルノフスキが仲間に入れてくれと懇願するのを拒否し、去って行くのを見る。ドゥルノフスキがマチェクに気付き、追ってくるので、そこから逃げたが、生憎政府軍の兵士と鉢合わせしてしまう。マチェクが拳銃を持っていたことから撃ち合いとなり、腹を撃たれながらもゴミの山まで逃げたものの、マチェクはついに力尽き、死んでしまう。


ひと晩の話を、マチェク周辺を中心に、約100分のストーリーにまとめた作品だ。進む速度が一定で、場所もホテル内が多く、しかもパーティの時間が大部分を占めるため、常に終戦を祝う楽の音が響いている。パーティとは別に、ダンスホールでは楽隊が演奏し人々が踊っている。いかにも、ハレの晩であるが、青年マチェクの心理は、そのようなお祝い気分ではない。

大命を受け、それを遂行しようという晩にクリスティーアと出遭ったことで、抵抗運動に身を捧げてきた自身を省(かえり)み、こんなステキな感情もあるんだということを知るのである。マチェクとクリスティーナが廃墟の奥へと入ると、そこには、逆さ吊りになったキリスト像があり、そこで二人は会話を続ける。さらに、クリスティーナは、壁に詩が刻まれているのを見る。途中で石が剥がれ、読めなくなったところで、マチェクが後を続ける。それはノルヴィトという詩人の詩(うた)であった。

「永遠の勝利の暁に 灰の底に 燦然たる ダイヤモンドが残るのか」

本作品のタイトルの由来である。


共産党に対する抵抗運動に身を捧げていた若者が、敵幹部の殺害という重大任務遂行途中で、ひとりの女に惚れたことから、人生の意味を再構成するチャンスに恵まれるが、その数時間後には、ゴミの山の中で無惨にも息絶えてしまう、という流れだ。もうすぐどこかの機会にマチェクはシュチュカを殺害する、という緊迫感を維持しながら、終戦気分で大騒ぎす人々と対照的に、マチェクという若者の悲劇を描いている。この緊迫感は、サスペンスとするにはやや気の抜けたところがあり、サスペンス映画として括ることは難しい。やはり、ひとりの青年の運命の日を、克明に追った物語であろう。この運命の日が、終戦の日と重なったことは、マチェクにとっても皮肉である。


カメラワークとして注目すべき点は、室内撮影が多いため、フレーム内の人物の立ち位置が、いかにも舞台上の出来事であるかのように撮られていることだ。そのうえで、手前の人物と向かうの人物とを同時にフレームに入れたり、シーンによって撮る角度を変えたりと、ヴァリエーションに富んだ撮影をしている。マチェクとクリスティーナのベッドシーンも、二人の顔だけを映しており、メインのストーリーに水を差すような描き方をしていない。その一方で、冒頭の乱射シーンなどはアクション映画に近いものがある。本筋にはかかわらないものの、ホテルのフロントの老人や掃除係の婆さんなどを登場させ、話に肉付けしている点も評価したい。


レジスタンス運動に熱心だった青年が、女性を愛する気持ちを知ったものの、別れざるを得ず、最後には、そうした思いも空しく、呆気なく殺されてしまう。ラストでのマチェクの息絶えるまでの演技がすばらしい。ラストがそのまま本作品の圧巻となっている。

灰の底に燦然たるダイヤモンドが残るのか、という詩になぞらえるなら、ゴミの山でのマチェクの死は、いかに喩えられるのであろうか。

マチェクの死は反政府運動の無意味さを象徴している、と、ポーランド政権側の統一労働者党が評価して上映許可されたとのことだが、政治的な映画としてより、何かに打ち込んだひとりの若者が愛に目覚めたものの突然の死を迎えた、という結果をどうとらえるか、そうした観点で観ておきたい映画だ。


『影』(1956年)でビスクピック役を演じたイグナツィ・マホフスキが、マチェクとアンジェイに直接指示を出した人物として登場している。同様に、カルボフスキ役を演じたアドルフ・フロニツキの顔も見られる。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。