映画 『影』

監督:イェジー・カヴァレロヴィチ、脚本:アレクサンデル・シチボル=ルィルスキー、イェジー・カヴァレロヴィチ、撮影:イェジー・リプマン、美術:ロマン・マン、音楽:アンジェイ・マルコフスキ、1956年、94分、ポーランド映画、モノクロ、配給:ヘラルド、原題:CIEN(=影)


あらすじは以下のとおり。


1956年現在のポーランド郊外。小型トラックを走らせるカップルは、道路と平行して走る列車の最後部から、ひとりの男が飛び降りるのを目撃する。車を止め、男に近寄ると、顔は無惨に潰れた状態であった。近くに一軒の家がぽつんとあったので、カップルは、その家の誰かに会うために男はここで飛び降りたのだろうと推測し、その家のドアを叩く。中から出てきた老女は、そんな当てはないと怪訝そうな顔をして佇むだけだった。

警察でカップルが事情を聞かれているところに、死んだ男の遺留品が運ばれてくる。検死の結果、男は即死であった。外套はあるのに、なぜか上着がなかった。身元不明のこの男の検視をした医師グニシン(ズィグムント・ケンストヴィチ)は、13年前のある事件を思い出す。


戦時中の1943年、ポーランドはドイツの占領地域であった。医師になる前、ナチスに対するレジスタンス活動をしていたクニシンは、ビスクピック(イグナツィ・マホフスキ)という男の経営する修理工場を、秘密のアジトとして活動していた。資金を得るため、ある日、グニシンら三人の男は、ドイツ人の高利貸しのチブルカの家を襲い、現金を強奪することになる。チブルカは不在だったため、一人で店番をしている女房らしき女を脅し、カネを勘定しているところに、別の三人の一隊が現われ銃撃戦となる。その一隊はナチスではなく、同じレジスタンスの同志であった。互いに顔を知らないがために、撃ち合いをしてしまい、クニシン以外は全員死傷してしまう。グニシンは、このいわば同士討ちを図った首謀者がいるに違いない、レジスタンスを潰そうとする者が影で暗躍しているに違いない、と思ったが、それが誰かはついにわからぬまま現在に至っているのであった。


ここで現在に戻る。男の転落事故のあと、その次の駅で若い男が降りた。乗車券を持っていないので、警官によって駅事務室で取調べを受ける。この若い男ミクラ(タデウシュ・ユラシュ)は、転落した男のコートを持っていた。男の飛び降りに関連あると思った警官は、管轄のヤヴォロヴォ警察署に連絡する。そこの部長刑事であるカルボフスキ(アドルフ・フロニツキ)は、部下とともに車で、ミクラのいるブジェジナ駅に向かう。車内で、カルボフスキは、かつて戦後間もない頃のポーランド亡命政府時代の出来事を思い出す。


1946年、カルボフスキは、政府軍の軍人として、政府に盾突き、極悪非道の狼藉をはたらいている「小隊」と呼ばれる武装集団とその首領を追っていた。反政府軍の犠牲となった葬式でさえ狙い撃ちする「小隊」の本拠を突きとめるため、ようやく上司である中尉アントニー(アントニー・ユラシュ)の了解を得て、「小隊」の本拠がある村へ、身分を隠して潜入することになる。同志のヤシチカも志願して、カルボフスキと二人で潜入することになった。ようやくしてその本拠に辿りつき、「小隊」の隊長の顔を見た。二人は、隊長のふるまってくれた食事をとっていると、そこに部下が数人入り込み、あちこちの村を襲い、略奪してきた、と報告するのであった。その場の勢いにヤシチカも悪乗りしてはしゃいだが、話を聞くうち、実はヤシチカは、元々「小隊」側が政府側に潜入させたスパイであり、カルボフスキを監視し、ここへ連れてくるのが役目だったことがわかる。その場から逃げきれないと察したカルボフスキは、ズボンのポケットに隠していた手榴弾を爆発させ、そこにいる者をみな吹き飛ばした。同時に自身も両脚を失い、現在は二本の杖が不可欠の体となった。

ブジェジナ駅に向かう車がパンクし修理しているとき、車から降りたカルボフスキははっきりと思い出すのであった、ヤシチカは、党の有力者ビスクピックの推薦で政府に採用された兵士であったことを。


ここでまた現在に戻り、ミクラ自身により、男の飛び降りまでの事実が明かされる。飛び降りた男はミクラとは顔見知りであった。スオミツェという炭鉱で火災が起き、死傷した坑夫が運び出され、家族らが来て混乱している現場で、ミクラは途方に暮れていた。ミクラは、ある男の指示で、その日の仕事を休み、男たちを炭坑の中へ誘導したが、その直後に爆発事故が起きたのである。この爆破テロにミクラは直接関与していなかったが、坑内でミクラは目撃されており、いずれ自分も疑われるだろうと予想し、自分に指示を出した男に真相をただすべく、男を探した。精肉工場で働く同志クバスに相談したところ、後でミクラの彼女テクラの家で会おうと言う。テクラの家に行くと、彼女から、ミクラは命を狙われているから早く逃げたほうがよい、と言われる。ミクラは、テクラの兄、クバスと三人で会って話すうち、二人が自分を殺そうとしていることがわかった。辛くもそこから逃れ、自分に指示を出した男が列車に乗ることを知ったミクラは、動き出したその列車に飛び乗ることができた。ミクラはその男スタニスワフを見つけた。男は個室に乗っており、ワイシャツの上に高価なコートを羽織っていた。通路でミクラは男を問い詰めるが、突然男は逃げ出す。列車内を追いつ追われつするが、ついに最後部から男は飛び降りてしまう。


「影」というタイトルに固執するのであれば、こうなるだろう。

クニシンの回想において、彼らレジスタンスを同士討ちにして潰そうとしたのだから、ビスクピックが影の男であり、ビスクピックはナチス側の人間ということになる。

カルボフスキの回想において、戦後ポーランドはソ連の支配下に置かれたので、政府軍とはソ連側であり、「小隊」と呼ばれる武装集団は反ソ側である。ヤシチカは政府に採用されながら、「小隊」が政府側に派遣したスパイであったことから、ヤシチカを推薦した共産党のビスクピックは、政府を支持しながら「小隊」をも支持する矛盾した影ということになる。映画では描かれないが、ヤシチカが二重スパイである可能性もあり、それならこの矛盾は解消される。


ビスクピックという名は同じだが、クニシンの回想におけるビスクピックはナチス側の人間であり、カウボフスキの回想におけるビスクピックは、ソ連側の人間ということになる。単純に考えれば、同じ名前なだけで別人ともとれるが、ナチスが崩壊したあとソ連側に寝返った男かも知れない、しかし、党の有力者という台詞からして、元からの共産党員であっただろう。となると、クニシンの回想におけるビスクピックも、本当の身分を隠し、ナチス侵攻下で否応なくナチスに協力し、ドイツ人の家で同士討ちするよう仕掛けたのは、ナチスに対する自らのアピールだとも考えられる。


現在にいたり、ミクラに指示を出した男は、炭坑内でテロを起こすのが目的だった。テロであるゆえ、反政府、つまり反ソ連側がやらせたことになる。この男は、今でこそ名前が違っているが、クニシンの回想に出てくるビスクピックと同じ俳優が演じている。ということは、ミクラに指示した男はビスクピックである。しかしながら、テロを起こし人を殺傷しておきながら、自分は高級なコートを身につけ、列車の個室に収まっている。戦後は名前を替え、共産党の幹部として、末端の人々の生活とは雲泥となる裕福な生活をし、反乱分子を平然と殺傷して楽しむような男に堕してしまっていたのである。


よって、ビスクピックが同一人物であり、タイトルのいう「影」である場合、ナチス占領下ではナチス側にあり、ナチス敗北後の戦後、ポーランドの政権過渡期にあっては、共産党の幹部となっており、「小隊」といった反共産分子を潰しにかかり、ポーランドがソ連の衛星国家になり名実ともに共産主義国家となった現在では、その延長線上として、共産主義に反抗する分子をテロによって粛清している、ということになる。

クニシン、カルボフスキ、ミクラは、互いに相手を知らないが、回想と現在に登場するビスクピックが同一人物とすれば、彼は初めから筋金入りの共産党員であるということになる。ビスクピックとスタニスワフ、どちらが本当の名前かはわからない。いずれも仮名であるかも知れない。


カルボフスキの回想のなかで、カルボフスキ「小隊」の潜む村に入ることについて、上司の中尉アントニー(アントニー・ユラシュ)は初め、政府軍に犠牲者が多く、猛反対するが、そこに共産党に入党したいとする年取った農民が現われたのをきっかけに、カルボフスキに、好きにしろ、という。その後、ヤシチカが唐突に、自分もカルボフスキに同伴して潜入したいと言ってきたときには、すんなりと同意する。このシークエンスで、アントニーがひとりで映るシーンが入る。外の仲間の死体を見ているのか、燃え盛る焚き木を見ているのかわからない。ただ、この思わせぶりなシーンが入ったことで、アントニーは、ヤシチカが「小隊」側のスパイであることに気が付いており、いざとなれば、カルボフスキを殺害するであろうことも予測していたということだ。そうであれば、ヤシチカを無理に引き留めることで、ヤシチカにその立場を見抜いていることを知られてしまう。そこで、この先カルボフスキに悲劇が起こるかもしれないことを憂慮したのであろう。


本作品をジャンルで分けるなら、サスペンスになるだろう。二箇所に長い回想シーンを入れることで、「影」なる人物を浮かび上がらせ、現在においてようやくその正体が明らかになるという運びで、見えない恐怖は見える恐怖より恐ろしいという言葉通りの展開で、徐々にその「影」が明らかになってくる。


カメラワークにおいて特筆すべきところはあまりないが、要所要所でカメラが静止するようにそのカットを終わらせる手法は、サスペンスの雰囲気を維持するのにひと役買っている。例えば、ミクラがスタニスワフの家に駆けつけると、女の子がいて、お父さんは汽車に乗る、と言う。クバスたが追ってきたので、入口の鍵をかけ、窓から出て行く。このあと、その女の子の表情でカメラは動かなくなる。ここでのこの少女のにこりともしない表情がよい。

ラスト近く、男が飛び降りたあと、ミクラは非常ブレーキをかけようとするが、そばに警官がいるのを見てやめる。しかし、よく考えてみれば、このまま男の転落を誰も知らずに列車が走っていれば、自分と男との接点などは過去のものとなってしまうのだ。実際、そう考えたミクラは、うっすらとほほえむような表情をする。ここもまたすばらしい。だが、このあと、ミクラは無線乗車で拘束され、結果的にすべてを白日の元に晒さざるを得ないことになるわけだ。


ミクラの映ったあと、その視線の先の窓外の景色が映され、ややカメラは下を向いて、列車のすぐわきに生える草々が、右から左に猛スピードで流れていくようすを映し、終わりとなる。

冒頭のオープニングは、長くくねった道を行く車の前方の景色が映され、やがてのろのろと蛇行しながら走るカップルのトラックに追いつく映像で、そのままタイトルバックになっている。


ポーランドのこと細かい歴史を知らずとも、一遍のサスペンス映画として楽しめる作品であろう。お笑いシーンなど冒頭のカップルのやりとりくらいであり、あとは徹底してシリアスなストーリーが展開する。滑稽味やユーモアの要素など全く入っていないという点で、同じ共産圏のチェコスロバキアのイジー・メンツェルが世に送った作品群とはだいぶ異なる。

また、いろいろ想像しながら観るのが好きな人向きの映画でもある。


それにしても、1950~60年代の共産圏の国々の映画は、土台にサスペンスの要素が置かれている。映画のなかに出現する反政府の立場、つまり、共産圏においてこれに反抗する立場というのは、ナチスの占領下におけるレジスタンスのように、それ自体がスリルとサスペンスの色合いをもっており、故意にサスペンスと銘打たなくとも、あえてそれを打ち消さなければ、自然とそうした雰囲気をもつ作品になっていくのであろう。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。