映画 『世代』

監督:アンジェイ・ワイダ、脚本・原作:ボフダン・チェシュコ、撮影:イェジー・リプマン、音楽:アンジェイ・マルコフスキ、1955年(日本公開は1981年)、83分、ポーランド映画、ポーランド語、配給:シレナフィルム、原題:Pokolenie(=世代)


『地下水道』(1956年)、『灰とダイヤモンド』(1958年)と並ぶ、アンジェイ・ワイダの俗に言う「抵抗三部作」の第一作。21歳のロマン・ポランスキーが俳優として出演している。『灰とダイヤモンド』で主役を演ずズビグニェフ・ツィブルスキーが、冒頭に出演している。


1942年、ドイツ占領下のポーランドが舞台。盛り場では、夜になると外出禁止令により店じまいをするありさまだ。ワルシャワ郊外のブディという町で母と暮らす青年スタフ(タデウシュ・ウォムニツキ)は、仲間のコステック(ズビグニェフ・ツィブルスキー)、ズイジョとともに三人で、ドイツ軍の貨物列車に飛び乗り、積まれている石炭の塊を脇に落として盗む、という仕事をしていた。この日も三人でナイフ遊びをしているところに列車が通りかかったので、いつものような段取りで石炭を盗もうとしたところ、ズイジョが見つかり射殺され、コステックは逃げてしまった。コステックが戻ってないかと洞穴の奥に年寄りのグジェシを訪ねるが、帰っていなかった。

その夜、グジェシの案内で居酒屋に連れて行かれ、セクーワ(ヤヌーシュ・パルシュキェヴィッチ)という職人に会い、彼の働くベルグ兄弟木工所で雇ってもらうことになる。翌日木工所に行き、ヤシオ(タデウシュ・ヤンチャル)という青年の見習工となり、ヤツェックに仕事を教わる。その木工所の幹部は、秘密裡に売上の一部をナチスに対するレジスタンス運動の資金援助をしていた。スタフは仕事柄、夜間のカトリック系の学校に通うことになった。ある日の放課後、スタフは、学校に反ナチのレジスタンス運動勧誘のアジ演説をしに来たドロタ(ウルシュラ・モジンスカ)という娘と知り合い、人民防衛隊として運動に参加することになる。組織に入ったスタフは、ヤシオも誘ったが彼は応じなかった。

数日後、製材所に材木を取りに行ったスタフが、理由もなくドイツ兵に殴られ、そのことに怒りを感じたヤシオと、レジスタンスの新たな仲間となったヤツェック、ムンデク(ロマン・ポランスキー)は、復讐を企てる。以前にスタフが見つけたピストルを手にしたヤシオはそれを使い、酒場でそのドイツ兵を射殺した。その行動をドロタらは非組織的だと非難し、ヤシオはスタフらから離れていった。ちょうどその頃、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たち一掃を目的とする攻撃が開始されるが、ポーランド人たちは、ゲットーの戦闘を他人事のように見つめていた。しかし、セクーワたちはゲットー絶滅を防ごうと勇敢にも出かけていく。そのセクーワたちを救出しようと、強奪したトラックに乗り込んだスタフたちに、ヤシオも自発的に参加する。セクーワたちは救出されるが、ドイツ兵に見つかり、スタフらと銃撃戦となる。ヤシオは建物内に追い込まれ、覚悟の自害を遂げた。

翌朝、スタフはドロタの家に泊まるが、彼女はやがてゲシュタポに捕えられてしまう。ドロタに合言葉を知らされていたスタフは、荒野でひとり、同志の若者を待っていた。若い男が近寄ってきて合言葉に応じて振り返ると、そこには六人の同世代の同志が、親しみの表情を浮かべ、スタフを見ていた。これからはスタフが、レジスタンス運動において、この仲間たちを率いることになるのだ。涙を流すスタフに敬意のまなざしを投げる六人の立ったままの全身をフレームに収め、映画は終わる。


本作品は、ポーランドのとある青年のレジスタンス運動への傾倒を描いたと同時に、若者たちの清純な気持ちと葛藤をみごとに表現した作品である。むしろ、一種の青春映画と呼んでもいいだろう。といって、今日の青春などという言葉からくるイメージのように軽々しいものではない。平和で豊かな社会にあって友情や恋愛を楽しんでいるわけではない。祖国を他国に蹂躙されているなかで、生死が表裏一体である日常の生きざまを描いているのである。


冒頭、カメラは長回しで、荒涼としたブディの風景と人々の貧しい生活ぶりをパンしながら映し込む。やがてスタフら三人のナイフ遊びに落ち着く。導入でのこのカメラのなだらかで温かみある動きは、後のさまざまなシーンでもうかがい知れ、若者たちの純粋無垢さを温かく見守っている。

極貧状態にありながら、不平不満を言わず、同じような境遇にある仲間とともに、スタフは働き、学校にも行く。そしてドロータとの尊敬にも似た淡い恋を挟み、レジスタンスのいっぱしのリーダーになっていく。


スタフの生きざまには、二人の主要な人物が絡んでいる。木工所に就職を斡旋してくれた年配の同僚セクーワと、スタフが見習いとして付いたヤシオだ。セクーワは木工所で働きながらも、同志の闘うワルシャワゲットーでの仲間たちの蜂起を知り、そこに手伝いに行くため、仕事も辞めてしまう。スタフが木工所に来たばかりのころ、セクーワはマルクスの考えをスタフに伝授し、共産圏にあるこの木工所でさえ、マルクスのいう労働者搾取が行われているようなものだ、と説く。年は離れていても、抵抗運動をする同志としては仲間であり、さん付けで呼ばなくてよい、とも言う。レジスタンスを展開するのに、年齢など関係ないのだ。こんなセクーワに親しみをもち同調したからこそ、スタフは仲間とともにセクーワたちを助けに行ったのだ。

もうひとりのヤシオは、木工所では先輩格なのであるが、優柔不断なところもある一方で、決断をすると無鉄砲に走るキライもある。そこが人間的・若者的でもある。彼の年老いた父親も同じ木工所で働いていたが、年齢を理由に解雇されてしまう。しかし、この高齢の父親を残し、ヤシオはドイツ兵の前で、華麗なる死を遂げる。初め、レジスタンス運動への参加を断っていたヤシオだが、アブラムという友人の突然の来訪やその他の出来事もあり、抵抗運動に入っていく。レジスタンスへの参加はスタフより後だったためか、スタフのヤシオに対する言葉遣いや態度が途中から逆転するのもおもしろい。


ラストシーンは、何かが起きるわけではないものの、実に心に迫る映像である。合言葉に応じて振り返ると、そこには六人の同世代の同志がおり、スタフのほうを見ているのである。これからはスタフが、レジスタンス運動において、この仲間たちを率いることになるということだ。このときスタフは、ひと筋の涙を流すのである。それは、ドロータがゲシュタポに捕えられたことやヤシオが死んだことへの悲しみではない。むしろ、彼ら彼女らの意志を継ぎ、新たな決意と責任を強烈に意識するあまり流した涙なのであろう。


ドイツに対する抵抗を下地とし、そこに純朴な青年たちを配すことで、一編の若者の映画が出来上がった。本作品は三日連続で三回観た。時代や主義信条を超え、なぜ本作品が今日まで礼賛され親しまれてきたのか、その理由がわかった気がする。


ポランスキーは途中より半ズボンで出てきており、仲間内ではちょっとヌけた感じのアホっぽい青年役だ。童顔なので少年に見える。補完的な役どころではあるが、いい役をもらったと思う。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。