監督:ルネ・クレマン、脚本:ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト、ルネ・クレマン、原作:フランソワ・ボワイエ『Les Jeux inconnus』、撮影:ロベール・ジュイヤール、編集:ロジャー・ドワイア、音楽:ナルシソ・イエペス、主演:ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリー、1952年、87分、フランス映画、配給:Les Films Corona、原題:Jeux interdits(=禁じられた遊び)
1940年6月、フランス郊外の田舎町、ドイツ軍の空襲に追われ、多くの市民が徒歩あるいは車で避難している。ポーレット(ブリジット・フォッセー)も両親と車で逃げる途中であったが、車が故障し、前へ行けない後ろに連なる車の運転手たちによって、車ごと畑に落とされる。やむなく三人は歩いて逃げる途中、戦闘機による機銃掃射があり、橋のたもとで両親は死んでしまい、愛犬のジョックも死んでしまう。ポーレットは後から来た他の車に乗せてもらうが、犬は死んでいるということで、川に捨てられてしまう。ポーレットは川に浮かぶジョックの死骸を追いかけ、ようやく拾い上げて歩き出す。片側しか車輪のない馬車を追いかけるうち、牛を追ってきたミシェル・ドレ(ジョルジュ・プージュリー)と出遭う。ミシェルはポーレットと話をしたのち、自分の家に連れて帰り、うちで引き取ろうと家族に父親(リュシアン・ユベール)に相談し、了解を得る。ミシェルには両親ほか兄二人、姉二人の兄弟がいた。
ポーレットはミシェルから、死んだものにはお墓を作るのだ、と教えられ、ジョックの死骸を、人の来ない水車小屋の土をミシェルと掘り返し、二人で愛犬を埋葬し、祈りを捧げる。ジョックが一人ぼっちでかわいそうだとポーレットが言うので、ミシェルはその願いを叶えるべく、モグラやヒヨコなどいろいろな動物の死体を集め、次々に墓を作っていく。二人の墓作りはさらにエスカレートし、ついには、十字架をあちこちから盗み、水車小屋のなかは本格的な墓地さながらの遊び場となっていく。・・・・・・
三回目の鑑賞になる。製作意図もうったえるものも明確であるのにかかわらず、何か違和感を感じる映画であり、いままでレビューにはしなかった。音楽は有名であり、音楽だけが独り歩きする映画もあるなかで、本作品は、音楽ともども映画そのものも世界中で親しまれてきた作品である。
犯人逮捕や歴史的なものなど、ストーリーの進む方向がはっきりしている映画は、それだけで製作上の得、すなわち観る側の応援を得られるように、貧困な幼児や子供を主役に据えた映画、また、戦争における被害者側を主役に据えた映画も、初めから作品上、観客の同情を買える優位な立場にある。本作品は、この後者を両方兼ねており、たとえストーリー上、映像上、失敗や不十分さがあったとしても、観る側はこれらに対して寛容でいられるのだ。そして、まさに、そのストーリー上の無理強いが、本作品にはみられるのである。
ポーレットには死の意味を理解できない、という設定を前提とするから、愛犬の墓をつくり、土に埋めてやりたい、というのには論理上の矛盾がある。冒頭、両親が即死し、ポーレットは母親の顔のそばで、母親を何度も見つめる。足を振るわせる瀕死の愛犬を抱きながら、母親をじっと見つめる姿は痛々しいが、目を覚まさぬ母親に異常が発生していること、つまり死を予感していることは、演技への演出でわかる。両親より愛犬に愛着はあったかも知れないとしても、ドレ家に落ち着いてから、両親のいる場所に行きたい、両親を弔ってやりたい、といった発言はない。この不作為が、ポーレットの死の意味をわからないことの証拠であるかのようにしているが、ドレ家の人に、両親はどうしたのかと聞かれ、明確に、死んでしまった、と答えている。死そのものの意味がわからないのではなく、両親の即死は、かわいがっていた愛犬の死のようには、ピンときていないだけなのである。死の認識はあるが、まだピンときていないということだ。愛犬の死骸の顛末をみても、ポーレットに死の意味がわかっていない、とする前提には無理がある。この物語を展開するには、どうしてもポーレットとミシェルの墓づくりをテーマとしたいがための無理な前提がごり押しされているのだ。
この点については、思い切って、両親や空襲の部分を省くべきだったろう。ストーリー途中にも空襲はあり、そこでポーレットが、両親を回想するなどの方法もあったはずだ。
もう一点は、ストーリーの展開というより、ストーリー全体の中には、その都度、節となるテーマがあり、どこかある部分に時間をかけたりクローズアップを入れることで、映像上のメリハリもでき、牽引力も出てくる。本作品には、そうした、いわゆるチャプターごとの山がなく、平坦であり、映像の数珠繋ぎに終始している。映像上の緩急がないので、わざとらしいストーリーの運びもあり、映画としてのおもしろみに欠けるのだ。そこを補うのが、ポーレットとミシェルという幼い二人の主役であり、戦争の悲惨さということなのであろうが、映画とは映像であるから、広義の映像上の遊びがない映画は、やはり陳腐な作品になってしまう。
ストーリー上のメリハリとして唯一の救いは、ドレ家とグアール家の仲の悪さであり、その上でのベルトとフランシスの恋愛であるが、これも脇に置くサブストーリーとしてさえ不完全であり半端な扱いとなっている。ミシェルが十字架を盗んだことで、墓地で両家は争いになるが、その顛末は、NHKの朝の連続テレビ小説レベルのユーモアであって、ああした滑稽なシーンを挿入したこと自体が滑稽である。
ラストシーンも有名であり、うったえかけるものは明瞭ではあるが、ミシェルまたはドレ家の人々との別れのシーンを挟むことなく、いきなりポーレットが駅で一人になるシーンに飛躍するのも意図的であり、女性が呼ぶミシェルという声に反応して、ポーレットがミシェル、ミシェルと連呼しつつ雑踏のなかに消えていくというのも、とってつけた感がある。
全般に、ナルシソ・イエペスが編曲・演奏する「愛のロマンス」が、ポーレットの登場シーンにしばしば挿入されることで、観客のお涙を頂戴したいという意図がうかがえる点も鼻に付く。
本作品は極端な失敗作でもなく、明確な意図をもって製作された映画であることは認めるが、映画として映像としては、いま一つの作品である。
0コメント