映画 『蛇の道』(改訂)

監督:黒沢清、脚本:高橋洋、撮影: 田村正毅、照明:佐藤譲、美術:丸尾知行、編集:鈴木歓、録音:井家眞紀夫、音楽:吉田光、主演:哀川翔、香川照之、1998年2月公開、85分、配給:大映


8歳の娘を誘拐され惨殺された宮下辰雄(香川照之)は、新島直巳(哀川翔)の助力を得て、宅配便を装い、大槻(下元史朗)を拉致誘拐する。大槻は暴力組織の一員であった。がらんとしただだっ広い廃屋の壁に大槻を鎖でつなぎ、宮下は大槻に反抗を白状しろと迫る。大槻は、直接殺したのは檜山(柳憂怜)だ、と言うので、新島と宮下は、ゴルフ場から檜山を拉致する。大槻の隣につながれた檜山は、互いに相手に罪をなすりつける。真犯人がわからないまま、宮下が寝ている間に、新島は二人に対し、ある提案をする。新島は、自分にとって犯人はどっちでもいいが、そろそろ決着をつけるため、二人とは別の犯人をでっち上げ、道案内をするように宮下に仕向け、スキをみて逃げればよい、と言うのだった。・・・・・・


『CURE』(1997年)の翌年の作品だが、こちらのほうはあまり知られていない。タイトルの「蛇(へび)の道」は、蛇(じゃ)の道は蛇(へび)、という言葉からとられたのであろう。本作品にいう蛇の道とは、極道の世界のことで、その世界の人間に復讐をしようとするためには、やはり極道あるいは極道的なふるまいや虚実が必要になってくる、とでも言いたいのだろう。


本作品に、極道の組織なるものは全く登場しないし、大槻や檜山らにしても、本格的な極道には見えない。途中からわかることだが、宮下にしても、かつてこの檜山らのグループにいて、幼児虐待ビデオを販売していたのだ。


宮下の娘が誘拐され殺害された経緯や、実際に直接手を下したのは誰かについては明確にならない。宮下に協力する新島が、どこで宮下と知り合いになったかも語られない。ただ、終盤になり、新島もやはり、自分の娘を凌辱され殺害されたことが語られる。幼児ポルノをつくり闇で販売してきた組織に対し、宮下を含め、新島は恨みをもっていたのだった。そして、その組織を潰さんがために、同じ思いをした宮下に接近したのだ。新島が組織を呼び寄せるのに別のとある廃屋を指定して呼び出すが、そこは自分の娘が殺された場所であり、それでその場所を知っていたからだ。


脚本に原作はなく、書き下ろされたもので、よく練られて書かれている。その原作を、うまく映像に落とし込んでいるのは、黒沢の実力であろう。

最低限の台詞と最低限のストーリーのなかに、嘘やまことが綯(な)い交ぜになっている。その台詞でさえ、全く同じものや似たようなものが繰り返されるのみだ。繰り返されるからかえってシンプルなのだ。別の言葉を使えば、そうした他の言葉の概念が混じってくるのである。フェイズを変えていくような台詞も、ごく普通の会話の中に淡々と語られていく。


舞台となる廃屋は体育館のように広く、奥には宮下が泊るへやまで付いている。この室内において、カメラは、固定と手持ちを使いわけ、キューブリック並みの空間処理が行われる。フレームいっぱいに、手前から奥まで収め、人物は点のような存在から全身までが自在に映し出されている。カメラが外に出た場合も同じで、高所からかなり広い範囲を収めることを忘れていない。この空間処理こそ、『トウキョウソナタ』(2008年)など後の黒沢作品にも見られる特徴だ。空間を大切にするからこそ、アップはないのだ。どんなに近くてもバストショットまでなのである。


冒頭、住宅街のさほど広くない道と、運転する新島、助手席に座る宮下が交互に映される。その道は登り坂でもあり下り坂でもある。座席から見える前方の景色からして、すでにサスペンスの匂いを漂わせている。終盤、それぞれの娘が殺された廃屋で、極道と新島・宮下が撃ち合いになる。その廃屋に宮下らが入ると、カメラを乗せた三脚があり、照明器具があり、産婦人科で患者が横たわるような椅子があり、モニターテレビがあるほか、脇には細い螺旋状のすべり台があり、いかにも蛇を象徴している。


新島がしている仕事は塾の講師のようだが、受けている生徒には中年の男や女もいる。その黒板に新島が書く方程式あるいは化学式のような数式はまことに不気味で、記号や数字の羅列は何を意味するか解説されないままだ。そのクラスに唯一賢い少女がおり、その子もまた8歳である。この少女は、新島、宮下、組織をつなげる役割を担っている。この子と新島が、公園の敷石にチョークで数式を書いていると、そこへ宮下が通りかかるシーンがある。これは回想シーンだが、おそらくそこから新島は宮下のことを知ったのであろうと推察される。このシーンは、ラストで再度、宮下の思い出として描写される。映画のラストで、この二人の初めての出会いに戻るという心憎い脚本だ。


この8歳の少女は、大人に混じって数式を勉強しており、率先して手を挙げて黒板に数式をすらすら書く。この天才的な少女は、新島、宮下の娘が殺害されたときの年齢と同じである。この少女の出自も塾に通う動機も明かされないが、それだけにその天才ぶりは本作品のもう一つの異常性を象徴している。塾の仕事を終えた新島が、外に出て帰ろうとするとき、ふと後ろを振り向くシーンがある。そこはごく普通の夜の商店街であり、何かが見えるわけではない。おそらく先に帰った少女の視線を感じたのではないだろうか。復讐とはいえ悪行をしつづけている自分に対し、ふと第三者の目、即ち少女の清純な視線を感じたはずである。しかし、その悪行に走るきっかけは、同い年の娘が殺害されたことであったのだ。この8歳の少女の存在こそ、本作品の副次的意味を担っており、この不可解な少女の存在によって本作品が厚みをもったことも事実である。


黒沢作品におなじみの低く響くような音入れは本作品ですでに健在だ。廃屋の中でのひとりのシーン、特にラスト前、鎖につながれた宮下が、新島のセットしていった宮下の娘の殺害シーンのビデオを目の当たりにするときなどに効果的に使われている。なおこのシーンは、ビデオ再生として描写されるが、無論大きくモザイクがかけられている。宮下はとても直視できないとして目を背けるが、そのうち異様な声を出しながら画面を見つめてしまうのである。


犯人への復讐の方法は、ほとんどいじめであり、猟奇的犯罪を犯した者に対しては相応でもあるが、拉致や監禁それ自体も犯罪であり、それにも増して、新島と宮下二人の行っているそれぞれの言動や相手に対する言葉も、宮下の新島に対する感謝の言葉でさえ、決して褒められたものではない。復讐という目的で結託した二人の人間・父親・男を通じ、その露わになる人間性を、閉じられた空間内のカメラワークで楽しませてくれる映画だ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。