映画 『恐怖ノ黒電波』

監督・製作・脚本:オルチュン・ベフラム、撮影:オツカーヤ・エンギン、編集:ブルク・アラタス、音楽:カン・デミルチ、主演:イーサン・オナル、2019年、116分、トルコ映画、配給:ブラウニー、原題:Bina(アゼルバイジャン語「建物」 (英語圏では、The Antenna(=アンテナ))


メフメット(イーサン・オナル)は中堅のマンションの入口前にある別棟の守衛室で、そこの管理人をしている。古い高層アパート群が並ぶなか出勤したが、またも遅刻してそこに来ていた上司のジハン(レベント・ウンサル)に注意される。今日は各部屋に深夜零時からの政府広報の放送を受信できるよう、屋上にテレビアンテナを設置する日であった。メフメットが守衛室に戻り、いつもの退屈な一日が始まろうとするや、ビルの屋上から男が転落する。男は先ほどまでジハンと話していた作業員だった。住人のフラットとジハンが話しているなか、住人の中年女性が出てきてメフメットに言うには、風呂場のタイルから黒い液体が滲み出してきて困るとのことだった。メフメットは今日中に修理すると答える。しばらくすると別の住人から、テレビが映らなくなったと連絡があり、メフメットが屋上に行くと、ここでもアンテナの軸から黒い液体があふれ出していた。

深夜零時からの政府広報とは、いわば政府のプロパガンダ放送であるが、その瞬間までに、建物内のいたるところで異変が起きるのだった。メフメットに修理を依頼した女性は、黒く濁った湯のなかで死に、ある家族のへやの額縁の裏からは黒い液体が流れ出していた。ついに地下にあるラジエーターが故障して暖房も使えなくなる。・・・・・・


時間的には、メフメットのとある一日を描いたドラマだ。スリラー的な味わいをもっているが、CGは使われず、クリーチャーが出てくるわけでもない。政府の独裁体制が始まることは素材として使われているが、それに対する反政府映画と断定するわけにもいかない。ただひたすらに不気味なシークエンスが続き、一部メフメットの妄想や幻聴らしき現象が入るものの、雰囲気で観ていく映画である。トルコのいつの時代かということについて、ナレーションもなく台詞にもなく、街のようすが映るのは冒頭のメフメットの出勤途中のシーンのビル群だけであり、かりに反政府的要素をもたせるとすれば、架空の時代を想定してのことだ。たしかに戦後よりトルコは複雑な政治史をもつが、ヒトラーを想像させるような独裁と、深夜からの放送を並列するのであれば、あくまでもそれは仮定の域を出ない。


黒い液体は冒頭から終盤まで頻繁に描写され、また規則性をもたずあらゆる所から出現する。また、完全にメフメットの妄想や夢とも言えぬシークエンスの終わりには、顔を白い布で覆われた人物が、懐中電灯の明かりの中に佇む。服装からして男か女かもわからず、背丈からして大人か子供かもわからない。この布を巻いた人物は、さらに5人になり、ラストシーンでも映る。そこまでのこの一連のシークエンスは、<メディアの世界>とでも呼べるような空間だ。そこここにテレビのブラウン管やテレビアンテナが転がり、通路の床や壁には新聞紙が広がり、壁に貼られている。


深夜零時から政府のプロパガンダ放送では、指導者らしき政治家がいろいろ話し出すが、いざ放送が始まっても、へやにある時計の秒針は零時ちょうどから進もうとして進まない。秒針は動いているのだが、零時ジャストのところでひっかかってそれより先に進まないのである。こうした描写からも、本作品は、独裁体制を進ませないための主張映画だと解釈されているようだが、その判断はやや狭量であろう。


本作品は、イエジー・スコリモフスキ監督の『イレブン・ミニッツ』(2015年)を思い出させる。特にそのラストシーンと重なるのだ。本映画において、独裁政権批判は一題材あるいは一きっかけに過ぎず、建物に住む家族や住人の出くわす不吉な出来事、おぞましい出来事は、政府や政治を超えて直接われわれに連結して何ものかであり、黒い液体、布をかぶった人物、メフメットのさまよい込んだ<メディアの世界>に象徴される不気味な空間は、その連結して何ものかを象徴して使われた道具なのである。では、その、直接われわれに連結しているものとは何か。

それは大衆社会であり、さらに正確に言うなら、匿名性の社会である。本作品は、予想される匿名の大衆社会における負の部分を剔抉(てっけつ)し、メタファーや喩えではなく、登場人物の台詞やナレーションで説明するのでもなく、あくまでもヴィジュアルにこだわり、<映像>という手法で描き出した作品なのである。この意味では、いつの時代かは不明ではあるものの仮定としてのトルコの、戦後のある時期を象徴しているともとれ、反政府を題材として使った理由にも頷けるのだ。


イランのアッバス・キアロスタミ監督の諸作品同様、本作品もその進行がやや平坦であることは否めない。シーンによっては繰り返しが多くしつこいところもある。監督が脚本を兼ねると、作品の優劣が極端に分かれるが、本作品はかろうじて失敗を免れたほうだろう。アメリカ映画や日本映画、ヨーロッパの映画の多くにおいて暗黙の基本となっているような、ストーリー上のメリハリ、映像シークエンスのメリハリ、例えば、辛く悲しい出来事が続き一件落着すると次のカットには壮大で美しい景観をもってくる、といったような手法、交響楽的手法は、本作品にはないのだ。


冒頭から常に冬の曇り空であり、人物すべてに、笑顔も生き生きとした感じも見られない。主役のメフメット自身も風采の上がらぬ容貌の男であり、住人家族が映ってもほとんど表情もない。台詞も限られている一方で、映像には注目しておきたい。へやの中にあるものなどが丁寧に撮られ、カメラワークもよく、俯角・仰角を巧みに織り交ぜている。冒頭、メフメットが目覚めるシーンから始まるが、メフメットの顔は逆さまに映される。その後、彼の簡素なへやの中が映されるが、アイロンやラジオなど細かく映される。


メフメットは、いろいろないきさつから、終盤、ジハンを刺し殺してしまうが、建物から出てきたメフメットが見るのは、あたかも絵画の額の中にいるようなジハンである。守衛室に入りメヌエットはジハンと睨み合いとなるが、そこでカメラは外に出、夜の雨のなか遠くから守衛室を画面左下4分の1に収める。そこでメフメットはジハンの首を刺す。カメラが室内に戻ると、ジハンは倒れ、血の溢れる首を押さえつつ事切れる。チカチカと点滅するライトに照らし出された床の血糊は、赤くも映り黒くも映る。そして、布を被った5人の人物が窓のそばに寄ってきてラストとなる。ジハンは、いわば管理する側の象徴であり、その流れる血は、建物から流れ出していた黒い液体に通じる。メフメットは使われる側の象徴であり、黒い液体と格闘してきたのであるが、窮極の結末として<赤い液体>とも戦ったのである。


音楽は常に、黒沢清の映画にあるような不気味な音入れがされており、効果的だ。

邦題はいただけない。原題通り「建物」でよいが、それでは間が抜けるので、「建物」という語を入れて、よりよい邦題を考えてほしかった。


本作品は、匿名の大衆社会における負の部分を象徴的に抉り出したものと一応の解釈はできるが、メフメットとジハンの成り行きは、憤懣のもたらす結果の悲劇性でもあるとも言えるから、負の部分を除去し解決するためには、匿名の大衆を敵とすることはできず、結果としては、特定の個人に対する攻撃に収斂せざるを得ない、と暗示しているともとれる。


本作品は、ジャン=リュック・ゴダール監督『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966年)にどこか通じるものがある。1966年ころ、パリの郊外における首都圏拡張計画に基づく公団住宅の建設が進んでいるなかに主婦売春を描いた作品である。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。