監督・撮影・編集:スタンリー・キューブリック、脚本:スタンリー・キューブリック、ハワード・O・サックラー、音楽:ジェラルド・フリード、主演:ジャミー・スミス、アイリーン・ケーン、フランク・シルヴェラ、1955年、67分、モノクロ、原題:Killer's Kiss
キューブリックの初期作品。通算5本目だが、商業映画としては2本目。公開時カットされた20分の未公開部分が入りDVD化されている。それでも67分の作品だ。
駅の中央で、ここ3日間ほどのことをつらつら思い出す男の姿が、本人のナレーションで語られ、その回想で本編に入る、ラストはここに戻る。
デイビー(ジャミー・スミス)はしがないボクサーで、田舎の叔父夫婦からの手紙で、その牧場に帰ってほしいと手紙で言われている。
最後の強敵ロドリゲスの試合で負けてしまい、アパートに帰りこれからを思案していると、向かいのへやの女性が悲鳴を上げたので、屋根づたいに助けにいく。
彼女はグロリア(アイリーン・ケーン)といい、街のダンスホールで客相手にダンスをして働いており、その店のオーナー・ヴィニー(フランク・シルヴェラ)は、グロリアを個人的に愛しており、毎日オープンカーで迎えにきていた。
そのヴィニーが突然へやに現れ、襲われそうになったので、グロリアが悲鳴を上げたのだった。
グロリアはヴィニーに愛想を尽かし、親しくなったデイビーと逃げることにする。先週分の給与をもらうためにホールに行く。デイビーも田舎に帰るため、マネージャーのアルバートに、ホールの前まで来てもらうことにする。
嫉妬に狂ったヴィニーは、デイビーを殺すよう手下に命じたが、たまたまそのとき入口にいたのがアルバートだったので、彼を人気のないところに追い込み、殺害する。
二人はアパートに戻り、荷物をまとめる。デイビーはカバンを持ってグロリアのへやに行くと、もぬけの殻になっており、そこから自分のへやに警官が来ているのを知る。警官らの言葉から、あアルバートが殺されたことを知る。当然グロリアも誘拐されたと察知し、拳銃を持って、ヴィニーの車の跡をつける。・・・・・・
簡単に言えば、しがない落ち目のボクサーが最後の試合にも負け田舎へ帰ろうかとうときに、外で会ったことのある向かいの女性を助けたことから一目惚れし、彼女をつけ狙う男とその組織に立ち向かい、ラストはかろうじてハッピエンドになる、という話だ。
別段、入り組んだ話でも映画セオリーを追求した内容でもない。
ただやはり、キューブリック初期作品にして好評を得たとなれば、そういう目で見てしまうものだ。
キューブリックの個性は、やはりカメラワークと、灰汁の強い演出である。
試合の直前のデイビーが緊張感や焦燥感から、へやの中をうろうろしているとき、向かいの女は目に入っているが、故郷から電話があり、窓と反対側にある鏡に、向こうの窓越しに女が映る、飼っている魚にエサをやるとき、水槽の手前にカメラを置き、その向こうにデイビーの顔を映す、など。
アルバートが殺されるシーンでは、手下二人を後ろから映しているが、真っ黒なシルエットにしている。デイビーがヴィニーと手下一人から追われる屋上のシーンや、無人の倉庫街のシーンでは、相当の奥行きをとって、対象をフレームの中ギリギリで走らせる。この奥行きのとりかたはキューブリックのその後の作品の定番となる。
デイビーが追われて逃げ込んだのはマネキン工場で、ずらりと並んだマネキンの中で、ヴィニーと格闘する。合間合間にマネキンの顔だけやぶら下がる手だけのカットが短く入る。マネキン工場での格闘は、いかにもキューブリックの好みらしい。
映画の中では冒頭で、デイビーとグロリアは顔を合わせている。グロリアは出勤で車道に出ると、ヴィニーが車で待っていっる。デイビーは試合に行くために階段を下りてくると、向かいあった出口で偶然二人は合い、軽く会釈する。二人が部屋を出て階段を下り、出口に出るまでを、交互に写している。いわゆるクロスカッティングだが、この方法は、翌年の自作『現金(げんなま)に体を張れ』(The Killing、1956年)でフルに活用される。
時間も短く、脚本にひねりもないが、カメラワークと演出は、すでにキューブリックの個性を予言させている作品だ。繰り返されるも懶(ものう)い音楽も効果的である。
主演のアイリーン・ケーンはグレース・ケリーに似て美人である。
私個人は、好きな女優と言われたら、このアイリーン・ケーンと、『望郷』(1931年、フランス映画)でジャン・ギャバンの恋する相手として出ていたミレーユ・バランの二人だ。
しかし二人とも、この一作だけが有名で、他の出演映画を観ることができない。
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