監督:犬童一心(いぬどう・いっしん)、脚本:渡辺あや、撮影:蔦井孝洋、編集:阿部亙英、音楽:細野晴臣、主演:オダギリ ジョー、柴咲コウ、田中泯、2005年、131分、配給:アスミック・エース
監督と脚本は、『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)と同じ組み合わせである。
細川(西島秀俊)が専務をする小さな塗装会社に、春彦(オダギリジョー)という男が、沙織(柴咲コウ)を訪ねてくる。沙織が金に困っているようだから、神奈川にある老人ホームの手伝いをしないかというのだ。
春彦はそのホームの運営者だったが、そこはゲイのためのホームで、その<メゾン・ド・ヒミコ>というホームを作ったのは、沙織の父(田中泯)であり、また、春彦はその父の<愛人>であった。
父はかつて、自分がゲイであることを告白し、母と沙織を捨てて、銀座に「卑弥呼」という名のバーを出し、その後、今のホームを購入し、引退したのだった。
その父もすでに、病いに冒されていた。・・・・・・
まず、<メゾン・ド・ヒミコ>という元ホテルのある場所が、海のそばという設定がよかった。
ゲイの映画というと、最近はBL系の浅薄なものが多く、無名時代の浜崎あゆみが出ている『渚のシンドバッド』(1995年)など、骨のある作品は少ない。
さらに彼らのための老人ホームという着想がユニークだ。ゲイであることで肩身の狭い思いをして生きてきた男たちが、その上、老いと向かい合って生き抜くという題材に取り組んだ姿勢を評価したい。
しかし、ここに暮らす数名の年老いたゲイたちは、死を目の当たりにしながら、落ち込む場合はあっても、決して陰鬱にならず、絶えず明るい。
ストーリーの時期は夏前後であるが、流しそうめんやお盆の迎え日など、いろいろな行事や通過儀礼を忘れない。
ゲイに対する特殊な目線は、四人の中学生らによる中傷や落書きで、普通に現されるが、ドラマの中心は、今にも最期を迎えんとする、沙織の父にして春彦の恋愛相手である男の、今までの生き方と存在感であろう。
こうした世界にいきなり巻き込まれざるをえなくなった沙織のとまどいや嫌悪感は、世間一般のそれであり、父との対話シーンでも、あらたまることはない。
春彦が、こうなると、愛だのなんだのというより、欲望がほしいと言って涙を流すシーンは、欲望の枯れはてたかのようなこのホームの中で、ひとり若い男の正直な感情だろう。
沙織の父の存在感を必要以上に大きくせず、回想を含め母や沙織との過去にもあまり時間を割かなかったことが、かえってこの作品の通奏低音として活きている。
中盤で、みんなと沙織が、横浜のダンスホールに出かけるシーンがある。
メンバーは多くの他の客とともに、「また逢う日まで」に合わせて踊る。このシーンはなぜか泣けてしまう。
お盆の迎え日とエンディングでは「母が教え給いし歌」が流れる。
この作品も、食べるシーンが多い。『ジョゼと虎と魚たち』以上に、衣食住のすべてにおいて、華やかな配慮と演出がある。
老いはゲイだけでなく、人間共通のテーマだ。どう老いるかが、最期の顔に現れるのだろう。
四人の中学生のうちのひとりが、いたずらしたときに春彦に睨まれる。それを機に、この夏だけホームに手伝いに入る。
ゲイになったのではなく、ゲイだから、年寄りだからとする差別を越えたのだと理解できる。
どちらにしても、これら老人のゲイとは対極にある存在を象徴している。
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