映画 『たぶん悪魔が』

監督・脚本:ロベール・ブレッソン、製作:ステファン・チャルガジエフ、撮影:パスカリーノ・デ・サンティス、音楽:フィリップ・サルド、主演:アントワーヌ・モニエ、1977年、97分、フランス映画、配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム、原題:Le diable probablement(=たぶん悪魔が)


シャルル(アントワーヌ・モニエ)という青年が自殺した、いや、自殺でなく背中に一発、頭部に一発の弾丸を撃ち込まれた他殺だ、とする新聞が冒頭に示され、本編はその6ヵ月前へと遡って開始する。友人に頼んで射殺してもらったわけだから他殺ではあるが、シャルルが撃ってくれるよう依頼しており、自殺には違いない。


1970年代、農産物に散布する農薬の安全性や種々の公害がフランスでも問題となっていた時代の話である。若者たちは、これら公害問題に策を講じない政府を批判し、集会が開かれていたが、見物に行ったシャルル(アントワーヌ・モニエ)は、そんな運動に何の意味があるかと吐き捨て、さっさと帰ってしまう。シャルルには、付き合っているアルベルト(ティナ・イリサリ)がいたが、アルベルトには同世代で彼女を慕う環境問題の研究者で先輩のミシェル(アンリ・ド・モーブラン)が好意を寄せていた。シャルルにはエドヴィージュ(レティシア・カルカノ)という彼女もいて、他の男が援助交際でエドヴィージュを弄(もてあそ)んでいるとし、一度は男に文句を言いに行く。シャルルには他にもセックスフレンドがいた。

環境問題のみならず、生きていること自体に意味を喪失し、刹那の享楽にしか関心がなく、厭世的な気分に襲われたシャルルは、ついに精神科の医師の元に行き、洗いざらいを話してみるが、それでも何も変わらない。某所で手に入れていた拳銃を持ち出し、今はエドヴィージュと親しい知人のヴァランタン(ニコラ・ドゥギー)にカネを渡し、自分を殺してくれるよう頼む。そしてそれはつつがなく実行され、ヴァレンタンが逃げ去るところで映画は終わる。


シャルルがアルベルトと一夜過ごしたとき、アルベルトは、あなたを抱き締めるためにも死なないで、と言い、シャルルは、いまこうしてここにいる、というようなことを言う。その後シャルルはミシェルに、アルベルトと結婚するんだ、とまで言い出す。核兵器の講義に出たあと、二人はバスに乗るが、ここでの乗客たちのとりとめのない会話の最後に、ある乗客から、たぶん悪魔が、というタイトル通りの台詞が吐かれ、運転手が驚いて振り向くと、その直後、バスは何かに衝突して止まる。運転手がドアを開けて外に出るが、その開かれたバスの扉は30秒以上にわたり定点のまま撮られている。


乗客が政府批判や人間性を否定する何ものかがいる、といった発言を不規則に繰り返すのを、シャルルとミシェルは聞いているだけだが、大衆社会全体に悪魔なるものが認識されていることを示すシーンだろう。衝突により、バスのドアは開けられたままで、近くの車からのクラクションが鳴り響くだけのシーンだ。このシーンは象徴的で、これ以降、その悪魔とやらにシャルルが取り憑かれたかのように、自殺という結末に向けストーリーが流れていく。


先に出てくる、シャルル、ミシェル、アルベルト、エドヴィージュいずれも美男美女であるが、途中から登場するヴァレンタンは風采の上がらぬ顔つきで義理にも美男子とは言えない。このヴァレンタンが、シャルルを殺すことになる。ヴァレンタンは、スーパーで缶詰やリンゴを万引きする、違法なドラッグを腕に注射する、シャルルと教会に泊ったとき、献金箱の鍵を開け、小銭を着服する、・・・いわば、容姿だけでなく、シャルルのように数学をはじめ学問的に優れ、いろいろと思索をめぐらすタイプの若者とは、正反対の位置にある。シャルルの自殺を幇助したのは、シャルルと同類の人間ではなく、シャルルとは正反対の異質な人間であった。しかし二人は、エドヴィージュを挟み、知り合いの関係にある。


しかし、登場人物相互の対比は、自殺の手段に関することであり、本作品のテーマからすれば二次的な要素である。本作品が、なぜ、環境問題を掲げた内容になっているか、なぜ、そのための集会をシャルルが否定するところから始まっているか、を考慮する必要があろう。


無論、当時の公害問題・環境問題を指摘する意味もあったろうが、それとシャルルの自殺がどう結びつくのか。農薬散布や海洋汚染、日本の水俣病のフィルムまで挿入させることに、どういう意味があるのか、ということだ。

つまり、これら環境問題と、その問題を解決するのに個人ではどうすることもできないことをうったえたいがために、わざわざ厭世的で自殺願望の強い青年を登場させる必要があったのではあるまいか。さほど大きな将来的課題に対し、最後は世論の喚起があるべきで、実際、そのようにして各国の歴史は公害問題を少しずつ解決していったわけだが、本作品にあるように、カトリック教会も無力となり、政治に期待も関心もなく、個人的に夢や希望さえもっていないとすれば、シャルルのような青年があり得てもおかしくはない、ということだ。傍(はた)からみれば、意味のわかりにくい自殺は多い。自殺とは誰の場合であっても、不可解であり謎となる部分がある。しかしその実行は、あっけないほどシンプルである。

こうした一連の状況を示すのが、本作品の狙いであったろう。即ち、シャルルが尊い命を自ら抹消するためには、それに引き合う巨大な社会問題が必要だったのである。環境問題が個人て解決できないから自殺したのではない、ストーリーとして、シャルルの自殺とバランスがとれるほどの<社会悪>が必要だったのである。


<生命の自損>と<社会悪>、両者をもたらしたものこそ、悪魔なのである。たぶん悪魔が、公害を惹き起こし、シャルルの命も奪った、ということなのだ。


次作の『ラルジャン』(1983年)の一つ前の作品であり、ものの受け渡しなどのシーンでは、そのやりとりの部分だけ映すような方法は、本作品にも見られる。また、上に述べたように、主役5人のうち4人は美男美女でなければ成立しなかった映画であろう。どのシーンにも、誰も笑顔は見られず、悪魔に導かれるように運命に翻弄されている。そうした内容であるからには、少なくとも容姿だけはまともな素人を使おうと思ったのであろう。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。