監督:ヤン・スヴェラーク、脚本:ヤン・スヴェラーク、ズデニェク・スヴェラーク、製作:エリック・エイブラハム、撮影:ウラジミール・スムットニー、音楽:オンドレイ・ソウクプ、主演:ズデニェク・スヴェラーク、アンドレイ・ハリモン、1996年、105分、カラー、チェコ映画、原題:Kolya
ズデニェク・スヴェラークとヤン・スヴェラークは親子。
50代も半ばとなったチェリストのフランティ・ロウカ(ズデニェク・スヴェラーク)は、プラハ市内の尖塔のような建物の最上階に暮らしている。かつてはオーケストラの一員として活躍していたが、今では、葬儀場で死者を送るときに流す音楽の奏者である。たまに母(ステラ・ザーズヴォルコヴァー)の元に寄り、いっしょに食事をする。生活もかつかつの状態で、演奏仲間からもカネを借りていた。葬儀場の演奏者だけではやっていけないので、墓石に彫られた文字の部分を金や銀できれいに修復する仕事もしていた。
あるとき、親しい仕事仲間のブロシュ(オンドジェイ・ヴェトヒィ)から、内密でカネになる仕事を紹介される。それは、ロシア人女性と結婚し、相手はロシア籍から離れるのが目的だから、結婚後半年くらいしたら離婚する、というもので、それを実行してくれれば相手の女性は大金を出すということだった。つまり偽装結婚である。ロウカはさすがに躊躇したが、最後には承諾する。その相手、ナディズダ(イレーナ・リヴァノーヴァ)は、5歳の男の子コーリャ(アンドレイ・ハリモン)の母でもあった。しかし結婚式まで挙げたあと、ほどなく彼女は単身、西ドイツに亡命してしまう。彼女の目的は初めから、共産圏をのがれ西側に行くことだったのだ。ロウカは、男児だけ預かるわけにもいかず、ナディズダの叔母に預けようとするがその叔母も亡くなってしまっていた。
警察当局は、偽装結婚を疑い、ロウカを取り調べるが、ロウカは、コーリャが手続き上、正式な自分の息子だとだけ主張する。こうして、否が応にも、初老のロウカは、見ず知らずであった5歳の男児コーリャの面倒をみなければならなくなってしまう。・・・・・・
ロウカは初め自分の母に、メンツもあり、コーリャはユーゴスラビア出身だとしていたが、ロシア語を話し、ロシア国旗を指して、僕の国の旗だとも言ったことから、ロシア人であることがわかってしまう。同じ共産圏内の国家であっても、チェコは反共産に目覚めてくるころの話であり、このあたりの時代状況は、イジー・メンツェルらにも通ずる。
本作品は、ロウカとコーリャが主役となり、年齢も言語も異なる者同士の<心の交流>を描いたものには違いないが、ナディズダが消え、コーリャがひとり残されるのは、中盤のやや前あたりだ。そこまでは、ロウカのキャラクター描写や日常が映し出される。かつて交響楽団の一員として誇り高い演奏家であったが、なにゆえ今日のように落ちぶれてしまったかは語られない。ロシアに対する批判を暗に示しているのであろうか。ロウカは葬儀場の演奏中に、アリアを歌う女性クララ(リブシェ・シャフランコヴァー)の尻をなでるので、一瞬クララが悲鳴を上げる。後半には、演奏中、チェロの弓でスカートを持ち上げるシーンも出てくる。そのクララとは一緒に寝る友達でもあるが、ロウカは元々独身主義者で、人に煩わされたくない質(たち)なのである。
そんなロウカが、やむを得ない事情とはいえ、コーリャと寝食を共にしなければならなくなるのだ。ほとんど水と油のような二人であったが、ロウカの心を少しずつ開き、ロウカにコーリャを慈しむ愛情を芽生えさせたものは何だったか。それは偏(ひとえ)に、コーリャの無邪気さであった。
映画館の前を二人が通ると、外の看板にはアニメーション映画の上映中とあった。コーリャの手を取ってロウカは無理に通り過ぎようとすると、コーリャは駄々をこねて泣き出す。受付に聞くと、5人以上の子供が来ないと上映しないという。ロウカは5枚のチケットを買って入場する。5人の子供客が来たのと同じにしたのだ。例えば、こうしたさまざまなやりとりを通じ、二人は本当の親子、あるいは、祖父と孫のような関係になっていく。これが本作品のテーマとなっている。育った環境も年齢も言語も異なる者同士、さらに一方が子供でありながら、その両者が、日常のなかで、肉親のように変容していくのである。
そしてラスト近くでは、なぜかは触れられていないが、ナディズダがコーリャを迎えにきて、空港で二人を送り、ロウカが立ち尽くす。西ドイツで住まいを見つけるのに、独身のほうが都合がよかったのか、母としての愛が甦ったのかもわからない。突然消えたときも、はっきりとした理由が語られていないのだから、戻ってきた理由も判然としない。はっきりしているのは、コーリャをロウカの元に置くという状況を作り出すのが目的だったということだ。
たしかに、こうした設定による作品は、さほど多いほうではない。しかも背景とする時代が、いかにもロシアがチェコスロバキアを追従させているころなのである。本作品は、ビロード革命が功を奏し、チェコ共和国とスロバキア共和国が分離した1993年以降に製作・公開された作品である。
脚本を書き、主役を演じたズデニェク・スヴェラーク自身の語るところによると、一旦書いて完成させた脚本を、二ヵ月放置し、再度見直して書き上げた、とのことだ。カメラも、編集後はわずかなシーンとなっているが、凝った撮影を行っているところが何箇所もある。冒頭、雲海の上を飛ぶ飛行機の窓に、子供の手が這ってくる。顔は見せないが、これはラストシーンにも出てくる。これはコーリャの手であることに違いない。
母が空港に迎えにきたとき、コーリャはロウカの後ろに隠れて、母のほうに行こうとしない。やがていっしょに搭乗口に消えて行こうというとき、ロウカに向けて手を振る。わずかな時であったが、その共有された時間は、コーリャにとっても、ロウカにとっても、かけがえのない時間になったに違いない。そしてその思いは、映画が終わったところから、さらに強くなり、胸の奥深く刻まれるのである。
0コメント