映画 『つながれたヒバリ』

監督:イジー・メンツェル、脚本:ボフミール・フラバル、イジー・メンツェル、原作:ボフミール・フラバル、撮影:ヤロミール・ショフル、音楽:イーリー・スースト、主演:ヴァーツラフ・ネッカーシュ、1969年、95分、カラー、チェコスロバキア映画、原題:Skřivánci na niti(英訳:Larks on a String)


1948年2月、チェコスロバキアの鉄屑のスクラップ工場が舞台。

チェコでは、労働階級による政変が起き、今やソ連に倣い、チェコは社会主義国家建設への途上にあった。スクラップ工場には数人の男たちが働いていた。中には、元大学教授(ブラスティミール・ブロドスキー)や検察官など過去のブルジョワジー階級を代表するような職業の者もいるが、牛乳屋やサクソフォーン奏者、金物屋、理容師もいた。その中で最も若いのが、ホテルの元コックのパヴェル(ヴァーツラフ・ネッカーシュ)であった。働く現場に、職場責任者(ルドルフ・フルシンスキー)が、カメラ班を連れてやってくる。男たちを並べ、植木鉢を両側に置き、それぞれに、社会主義のよさなどの宣伝文句を言わせ、プロパガンダビデオを撮ろうというのだ。

この工場の隣には、鉄屑を仕分けする施設があり、そこには、国外脱出を試みようとして失敗し捕まった女たちが囚人として働いていた。その中のひとり、イトカ(イトカ・ゼレノホルスカー)とパヴェルとは、互いに惹かれ合っていた。ただ、監視役(ヤロスラフ・サトランスキー)がいるため、声を交わしたりすることはできず、パヴェルが手鏡で太陽の光を反射させ、イトカの顔に当てて互いにほほえむくらいしかできなかった。

二人はやがて結婚する。イトカは服役中の扱いなので式には出られず、パヴェルの叔母が代理として出席する。イトカは刑務所のなかで結婚を認められ、結婚指輪もそこではめることになる。そんななか、元教授は、小学生と巡回に来た女教師に議論を吹きかけ、連行される。パヴェルも、党幹部の歓迎式で、連行された仲間のことを訪ねたことで、拘束されてしまう。結果的に3年の懲役となり、仕事も労務としての炭鉱夫に変わる。

パヴェルら炭鉱夫を乗せたトラックが止まると、その建物の上から、イトカが手鏡で、パヴェルの顔に光を当て、互いの無事を確認する。仕事の現場で、パヴェルは先に連行された元教授たちと再会し、エレベーターで地下深くへと降りていく。


『厳重に監視された列車』(1967年)の2年後に撮られた作品。

オープニングで、いたるところで煙突から煙が上がり、建設中の工場が連なるなど、いかにも開発途上にあるチェコの街全体が映される。本編に入り、冒頭、やや低い上空から、屑鉄などが乱雑に山積みにされているスクラップ工場が、舐めるように映される。それから、舞台となるスクラップ工場へと移っていく。

まず監視役の結婚式が行われ、そこに出席していたパヴェルも、いつかイトカとこうして結婚したいと思うのである。社会主義体制に歯向かい、批判する者は、次々連行されていくような現場の実情のなかで、パヴェルとイトカも結婚し形式的には結ばれるが、双方懲役の労務に従事し、スクラップ工場にいたとき以上に自由は利かなくなっている。


体制批判という観点からは、『厳重に監視された列車』より踏み込んだ内容となっている。『厳重に監視された列車』では、ミロシュ・フルマという青年の生きざまが中心に描かれており、その生きざまの過程に、ナチス・ドイツへの批判が盛り込まれていた。本作品は、体制そのものへの批判が中心に置かれ、パヴェルの恋は、その体制に不満をもつ労働者たちの日常の過程に出現するだけである。


体制側にある職場責任者も、帰り道には、薄暗い廃屋の奥に行き、若い女の体を湯で洗ってあげるという役得に甘んじている。幹部が高級車で工場に着くと、かぶってきた帽子をカジュアルなものに替え、ネクタイをとって見回るなど、外見だけは君たち労働者と同じ側にいると見せかける。一方で、小学生を引率し工場にやってきた女教師は、労働者や隣の施設の女性たちを指し、帝国主義を非難し、これからは社会主義の時代だ、と生徒たちに言い放つ。


ただ、それならば、この映画が単なる体制批判の映画なのかと言われれば、そうではない。体制批判やその幹部の実態が内容の8割を占めるなかで、家族持ちの男が将来の不安をうったえるような内容にせず、パヴェルとイトカという若い男女の恋愛をその2割に置くことで、彼らの恋が、ちょうど手鏡に反射する太陽の光のように、薄汚く殺風景なスクラップ工場のなかに輝いているのである。これを象徴するのが、白い花なのだ。しかも、二人のなりそめや過去の話など、個人的な内容はほとんど出てこない。二人の恋を輝かせるためには、そうした内容はむしろカットされて当然なのだ。


パヴェルには母がいるにもかかわらず、挙式には叔母が、しかも花嫁の代理で出席する。詳しい制度はわからないが、わずかな登場シーンからして、母は熱心に働く労働者であり、その良き日の夕食にパヴェルが作ってくれたスープを入れる皿を、肘で故意に壊し、その皿にスプーンを置いてスープを待つ。シーンの続きからして、母は労働で疲れたところに酒を飲み、酔っていたからである。


小学校の教師が、労働者に感謝する意味で生徒たちに持参させ、彼らに手渡すのは、共産主義を表わす赤い布と赤い花である。始まってすぐ、職場責任者がビデオを撮影しようとしたとき、男たちが集合した脇に置かれるのは、花のない植木鉢である。これに対し、花嫁の代理人は白い花のブーケを持ち、イトカが持つのも刑務所所長室のデスクにあった白い花だ。白いペンキの噴霧器で、薄汚れた廃屋の建物が真っ白に塗られていくとき、その建物の奥の薄暗い所では、職場責任者が、若い女の体を洗うのである。外見だけ白くしたとしても、中身はこうだ、という皮肉でもある。


社会主義体制批判のなかに、そこだけキラリと輝く若い男女の恋を描き、しかも彼らがその体制のなかに従順にしたがう姿勢を見せることで、その輝きは一層眩(まばゆ)いものとなっている。二人は、いかにもつながれたヒバリであるが、いつの日か天高く、その声を響かせるのであろう。

なお本作品にも、『厳重に監視された列車』ほどではないが、男根のメタファとなる形の物が出てくるシーンがある。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。