監督:イジー・メンツェル、脚本:イジー・メンツェル、ボフミル・フラバル、原作:ボフミル・フラバル、撮影 :ヤロミール・ショフル、編集:イジーナ・ルケショヴァー、音楽:イジー・シュスト、主演:ヴァーツラフ・ネッカーシュ、1966年、93分、チェコスロバキア映画、チェコ語、モノクロ、製作:バランドフ撮影所、原題:Ostře sledované vlaky(※英訳では、Closely Watched Trains となっている。)
『つながれたヒバリ』(Skřivánci na niti、1969年)や『スイート・スイート・ビレッジ』(Vesničko má středisková、1985年)、『英国王給仕人に乾杯!』(Obsluhoval jsem anglického krále、2007年)で知られるイジー・メンツェル監督の初期長編。本作品では、医師の役としてカメオ出演している。
いわゆる「プラハの春」(1968年に起きたチェコスロバキアのソ連に対する変革運動)の起きる2年前に公開された映画である。
舞台は、第二次世界大戦中のチェコスロバキアの田舎にあるコストムラティという駅。当時チェコはナチス・ドイツの保護領下にあり、ドイツに対し協力する関係にあった。オープニングの前、ミロシュが初出勤するとき、ドイツ軍のジープが横切っていくシーンが見られる。
その田舎駅に、地元ではよく知られているフルマ家の息子ミロシュ・フルマ(ヴァーツラフ・ネッカーシュ)が、新米の鉄道員として着任する。そこには、駅長のマックス(ウラジミール・ヴァレンタ)、ミロシュの先輩となるフビチカ(ヨゼフ・ソムル)、その他高齢の作業員や女性の事務職員らがいた。ミロシュが思いを寄せる貨物列車の車掌のマーシャ(イトカ・ベンドヴァー)とは、時折、駅に列車が停車しているわずかな間に言葉を交わす程度であった。・・・・・・
何とも粋な映画である。色っぽさを指す粋ではなく、センスがよいという意味だ。邦題は英訳をそのまま日本語訳にしたものと思われる。その意味するところは、駅の前を頻繁に通過するナチス・ドイツ軍の貨物車両を指していると思われる。そして、その貨物車両が、ラストで爆破される。また、ラスト近くにパルチザンの女性が登場するが、ボディに風景や裸婦の絵画を貼り付けた機関車が登場するなど、ナチスに対するチェコ人の側からの風刺や婉曲な批判も描かれている。
大戦中という設定なので、村に空襲警報が鳴り、実際に空襲のシーンも出てくる。ドイツ軍の地区幹部(ブラスティミール・ブロドスキー)が三度にわたり登場するシーンもある。そうした背景をちらちらと描きつつも、本編の主題となっているのは、ミロシュの<性への開眼>である。正確に言えば<性行為への開眼>である。この田舎駅には、看護婦を乗せた救護用列車が洗濯のため停泊することもあり、ドイツ兵数人が徒歩でこの駅を通り過ぎるとき、その列車に全員が乗り込む。興味津々のミロシュがこっそり中を覗くと、集団でセックスをしている。フビチカは女ったらしであり、いとこと称してコールガールを駅に呼び、駅長室でセックスし、女性事務員ズデニチカ(イトカ・ゼレノホルスカー)ともじゃれ合って、その太腿や臀部に、証明用に使う駅の印を押し、その母親からそうした破廉恥行為をうったえられ、挙句の果てにドイツ軍のチェックを受けるまでになる。
そうした環境で、ミロシュはマーシャと寝る機会をもった。マーシャの叔父がスタジオ写真を撮る仕事をしているので、たまにそこを手伝うマーシャはミロシュをスタジオ内に導く。夜、叔父が食事しているへやからドア一枚だけ隔てた隣のマーシャのへやで抱き合うが、ミロシュは性行為に失敗し、落ち込み、翌日、ラブホテルに一人で入り、浴槽で両手首を切ってしまう。すぐ発見され、自殺は免れ、ミロシュはいろいろな人に相談する。医師(イジー・メンツェル)には、早漏と似たようなものだから、あまり気にするな、経験ある女性の手ほどきをうけるとよい、などと言われる。ついに駅長やその妻にまで、手ほどきをしてくれる女性を紹介してほしい、などと言う始末だ。
こうしたことの相談に最も適当と思われたフビチカに話していたところ、美しい女がプレゼントの箱を持ってやってくる。箱を開けると、そこには時限爆弾が収められていた。女はチェコのパルチザンで、ヴィクトリア・フライエ(=<勝利と自由>の意、ナジャ・ウルバーンコヴァー)と名乗った。明日この駅を通過する28輌のナチスの貨車には弾薬が満載されているので、そこにこれを仕掛けて爆破してほしい、と頼みに来たのだ。渡りに船で、フビチカは、フライエを駅長室に案内し、ミロシュと二人きりにする。翌朝ミロシュは晴れ晴れとした表情を見せてる。ようやく<性行為に開眼>したのである。
田舎の駅を舞台にしているので、駅構内、駅長室、事務室などが中心となる。それだけに、場所の移動、例えば、ミーシャの叔父の家がどこにあり、どうやってそこに行ったかなどは描かれない。駅長室と仕事場の位置関係もあまり鮮明でない。場所と場所の関係が不明だ。加えて、駅長室でえあれ事務室であれ、どこに何があるのかといった位置関係も不鮮明だ。
だが、ストーリーの流れとして、メインテーマとその背景がうまく混ぜ合わされているうえに、シリアス一辺倒ではなく、ずっこけたシーンなどがふんだんにあり、つくりとしておもしろいのだ。マックスは駅長でありながら、偉ぶることなく、鳩舎まで作り、鳩にエサをやることが趣味以上の日課となっている。フビチカの破廉恥行為に対しても怒りを覚えるが、結局何も言えない。そのフビチカは、仕事としてやることはやるにしても女癖は悪い。ラストで、ドイツの貨車が爆発しても、その爆風のなかで高笑いをしている。ミーシャの叔父は、二人が隣部屋でセックスしていることを何とも言わず、むしろモデルたちと一緒にドアの前で聞き耳を立てる。その他、空襲と同時に鳴る空襲警報、性行為がうまく行かなかったのは早漏と同じことだと諭す医者、などなど。
こうして、どこかずっこけムード満載な映画なのだ。そもそもミロシュ自体の性格設定も興味深い。年頃の青年でありながら、好きな子とセックスができなかった。隣に叔父がいてラジオの音もよく聞こえるとはいえ、叔父も承知の状態なのに、何もできなかった。それに悩み、自殺未遂を起こす。今度は、女を紹介してくれ、と周囲に頼む。オープニング前、ミロシュ自身の声により、曾祖父や祖父、父のエピソードが語られるが、それぞれに滑稽なエピソードの持ち主ばかりだ。
シリアスの中の滑稽さや性的な風紀紊乱(びんらん)を描いているが、映像はきちんと辻褄合わせを行なっていることを見逃してはならないだろう。映像としての主役は、ミロシュとともに、ミロシュのかぶる制帽だ。これは、冒頭、初めてミロシュが駅員の真新しい制服を着るとき、母親の手でおごそかに息子の頭に乗せられる帽子であり、ラストで、爆風のなかマーシャが拾う帽子である。
初めてマーシャといっしょに寝、行為に失敗したとき、ミロシュは帽子をかぶったままベッドにいた。ヴィクトリア・フライエとのときは、帽子をとっていた。帽子は駅員の証しであると同時に、ミロシュの性が開眼したかどうかの目印の代わりとなっている。さらに、性行為が不可能という意味での男性性器の状態を象徴しているとも言える。なお本作品には、時折、男根のメタファとなる形の物が画面に現れるシーンがある。
音楽も以上のような内容に合わせるかのように、冒頭から常に明るく快活な長調のメロディで、この映画が、場合によってはコメディと捉えられてもかまわない、と言っているかのようだ。ミロシュが<性行為に開眼>したあとも、それにふさわしいすっきりとした明るい旋律が流れる。
どこか間の抜けた、のどかな、不品行の多い人物を描きつつ、静かに遠回しにではあるが、ラストでドイツ軍の貨車が爆破されることもあり、当時のナチスに対するチェコの人々の反感、そして、その相似形としての<現在>のソ連に対する反抗を代弁して描いた作品とも理解することができる。
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