監督:大森立嗣、脚本:大森立嗣、高田亮、原作:吉田修一 『さよなら渓谷』(新潮文庫刊)、撮影:大塚亮、美術:黒川通利、録音:吉田憲義、編集:早野亮、音楽:平本正宏、主演:真木よう子、大森南朋、2013年、116分、配給:ファントム・フィルム、R15+
都下、奥多摩方面の美しい渓谷の谷間にある集落で、立花里美が自分の息子を殺した疑いで逮捕される。棟続きのアパートの隣には、尾崎俊介(大西信満)・かなこ(真木よう子)が住んでおり、立花は、自分と尾崎俊介には関係があると供述した。多くのマスメディアがこのアパート周辺に集合し、そこには週刊誌記者の渡辺一彦(大森南朋)もいた。渡辺は、後輩の小林(鈴木杏)と尾崎俊介の過去を洗ううち、尾崎がかつて大学の野球部にいて賞を得ていたこと、だが途中で退学していること、その原因は、尾崎を始めとする4人で、女子高校生・水谷夏美を集団レイプしたから、といった事実を掴む。・・・・・・
そのレイプされた水谷夏美が、実は尾崎の今の妻・かなこ自身であり、いわば加害者と被害者がいっしょになるまでのプロセスと、その時々の心情をテーマとしている。それぞれに暗い過去を持ちながら、そうした男女がいかにして今日にまで至ったのかが描かれてくるが、ラストでかなこは、さよならと一筆残しただけでどこかに行ってしまい、俊介は必ず居場所を見つけ出すと渡辺に言い、ラストとなる。今では互いに思いやり、セックスも普通に行う男女ではあるが、ここまで来るプロセスには、当然のことながらさまざまな心情の変化があったことが描写されている。そのプロセスこそ本作品のテーマだ。
多少予測はつくが、レイプの被害者がかなこ自身であることは中盤あたりで明らかにされ、自分を犯した男といっしょになる女の気持ちは理解できない、という小林の常識的な台詞もある。本作品は、そうした常識では理解できない文学的虚構を、映画化したものと言えよう。たしかに、水谷夏美はレイプされたあと、結婚話があっても過去を暴かれ破談になるなど、そうした過去があるがゆえの手痛い制裁を社会から受け、二度も自殺未遂を起こしている。その水谷に対し、俊介は何度も病院や自宅に謝罪に行くなどし、自責の念に駆られていた。
俊介はひれ伏すような気持ちで夏美に会い、自分に何かできることはないか、などと贖罪の方法を申し出たりもする。俊介が留置されている間に、渡辺と小林が俊介らの自宅を訪ね、かなこが回想するシーンが後半の大部分を占める。この断片的に挿入される二人の過去のやりとりが、この男女が一緒に暮らすことになるという謎を解く材料提供のシーンとなっている。
俊介と夏美は旅に出る。並んであるくと、夏美は俊介に、付いてくるなとも言うが、腹がすけば一緒に食事する。夏美は俊介を拒絶しつつも、俊介が追ってきてくれることを期待している。やがて今の住まいに落ち着くことになる。
文学は文章の芸術だ。それをほとんどそのまま台詞にしただけでは、映画にはならない。映画とは映像である。映像で、その文学の表現したかったことを表現できるのかどうかだ。
中盤以降の二人の道行きには、さまざまな風景が描かれる。エンディングからしてロケ先は新潟県であろうが、映画始まりの季節が猛暑の夏だったのに対し、秋から冬にかけての風景が使われる。波うち際を歩く二人の姿など、構図として美しいシーンが多い。そこに、限られた台詞が入る。
カメラのフレームも言葉少なにした会話もよかったし、その会話の合間にかなり長い間をとる演出も効果的であった。惜しむらくは、渡辺という記者の存在だろう。彼は準主役であり、冒頭からラストまで出てくる。彼がいなければ、この男女の過去から現在までは表に出ることはなかった。
だが、この渡辺のキャラクターがあまり明確でない。この男女のことを描くのに、渡辺とその妻(鶴田真由)とのぎくしゃくした関係を入れる必要があったのか、あったのなら、本筋に対していかなる効果を狙ったのかをはっきりわかるように描写していなければならないだろう。脚本の一人は、このあと、『そこのみにて光輝く』(2014年)、『きみはいい子』(2015年)、『まともじゃないのは君も一緒』(2021年)などを発表した高田亮だ。
渡辺の回想ということで、全編を括弧に括って回想にしてしまうか、この男女と別に渡辺夫婦の軸をつくってしまうかだが、後者にすると俊介・かなこの心情の移り変わりという主題は薄れてしまう。あるいは、この男女の生きざまだけを抽出し、渡辺の存在は削除してしまうほうがよかったかも知れない。
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