監督・脚本:木下惠介、脚本:松山善三、撮影:楠田浩之、音楽:木下忠司、主演:高峰秀子、田村高廣、佐田啓二、1955年、99分、製作:松竹
東京で林野庁に勤める石津圭三(田村高廣)が、休暇を取って、故郷の飛騨高山に帰省した。圭三には冬子(高峰秀子)という恋人がいたが、冬子は家のために、市会議員の息子・寺田敏彦と結婚したが、その後夫を亡くし、今では夫の実家で一人娘と暮らしていた。敏彦の命日に、冬子が墓参りに行くと、そこには圭三の姿があった。偶然の再会に、圭三の心は揺れ動く。敏彦の弟である俊介(佐田啓二)は、未だ独身であるが、冬子に思いを寄せていた。・・・・・・
圭三の実家は、石津酒造という老舗で、自前で高級車も所有している。一方、俊介は、父の仕事を手伝いながら、春慶塗の店を経営している。冬子の実家は、酒屋を経営している。小さな町であり、大きな店の息子・圭三と未亡人・冬子との噂は、すぐに広がる。
4歳になる一人娘をもつ冬子という未亡人が、幼馴染みの圭三と、義理の弟との二人に愛され、最後まで心が揺れる、というストーリーだ。最終的には冬子は圭三には付いていかず、寺田の家に住み続けることになるが、俊介と再婚するかどうかは語られずじまいで終わる。
一定の方向に流れをもつストーリーではなく、子供の恋愛でなく大人の恋愛、しかも、未亡人の恋愛物語でもあり、ラスト近く数人の台詞にあるように、冬子は、世間の目を気にしつつ今のままでいるか、世間の目など気にせず新たな生活に踏み切るか、という瀬戸際に追いやられる。亡き夫とは、いわゆる幸せな時間を共にした思いをもてない冬子は、圭三の誘いを断るものの、圭三が東京に帰るという早朝、ついに駅まで追いかけてくる。がしかし、改札を通ろうとしたところに、金沢から帰ってきた俊介と出会ってしまう。この結末は妥当であった。
ということは、本作品で描きたかったのは、冬子と圭三、俊介の心情ということになる。そこに、高山祭り、音楽会といった行事や、お稽古事、芸者との遊びといった非日常を挿入し、圭三がかつて冬子から借りたままとなっているアンドレ・ジッドの『狭き門』の一節が絡む。『狭き門』は、この3人の置かれたのと類似した状況の物語である。
では、冬子と圭三、俊介の相手を思う心情は、それぞれに明瞭に描写され、観る側に伝わってきただろうか。冒頭、圭三が乗ってくる汽車が何カットかで撮られ、高山駅のホームに着く。ラストは、東京へ向かう圭三の乗る汽車が、高山から遠ざかるシーンだ。カメラがパンすると、線路の傍(かたわ)らには、冬子から借りっぱなしになっていた『狭き門』の文庫本が捨てられている。
圭三の心情は克明に描かれているのに対し、俊介のほうは弱い。そ最後に冬子は圭三といっしょになるかと思わせておいた分、そうならなかった悲劇性を大きく見せる作戦だったのだろう。しかし、この未完成の愛は、両者を平等に描いていても、大きなアクセントになりうるので、やや片手落ち感がある。
また、冬子は、世間体を慮(おもんぱか)るだけで圭三を追わないのではなく、幸せ薄かったが夫やその家に尽くすという義務感や諦観もある。この部分は台詞にだけまかせてしまい、あまり伝わってこない。
原因としてはまず、登場人物の数が多過ぎるのだ。冬子の姉妹、二人の噂をする若者たち、タクシーの運転手などである。石津家の使用人・お次(市川春代)の息子・良一(石濱朗)についても、ラスト近く、好きな女と駆け落ちするという、冬子たちのありかたと比較するために登場させただけのようにも映り、それまでに出てくる良一の転職や母とのやりとりは、冬子ら3人の関係を描くうえで、それらに何ら影響せず、演出的効果を見出せない。
映像では表現しにくい内容に対し、果敢に取り組んだ作品ではあるが、ストーリーや台詞と、美しい映像シーンが、乖離してしまった点が惜しい。
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