監督:ダニエル・シュミット、脚本:ダニエル・シュミット、パスカル・ジャルダン、原作:ポール・モーラン「ヘカテの犬たち」、撮影:レナート・ベルタ、編集:ニコール・ルプシャンスキー、美術:ラウール・ヒメネス、音楽:カルロス・ダレッシオ、主演:ベルナール・ジロドー、ローレン・ハットン、1982年、108分、スイス・フランス合作、配給:ヘラルド・エース、原題:Hécate, maîtresse de la nuit(ヘカテ、夜の女主人(愛人))
1942年、ドイツ軍がモスクワに迫ろうという時代。スイス・ベルンの夜の社交クラブで談笑する男ジュリアン・ロシェル(ベルナール・ジロドー)は、今ではフランス大使となっているが、アフリカ赴任時に狂うような恋をした女がいた。映画はすぐに過去の回想に入り、ラスト寸前で現在に戻る。
1936年、ロシェルは、フランス領モロッコの領事館に赴任する。領事館といっても一等書記官も置かれない田舎の赴任地で、秘書がひとりいるだけだ。迎えたのはヴォーダブル(ジャン・ブイーズ)で、ここは地獄だ、と言いつつ、夜になるとロシェルを社交クラブに案内する。そこでロシェルは、一人佇む美しい女クロチルド(ローレン・ハットン)と出遭い、恋に落ちる。彼女は、自分のことを詮索もせず、ありのままの自分を受け入れてくれる理想的な女であった。デートやセックスを重ねるうち、ロシェルに男としての支配欲が湧いてきたころ、ロシェルには別居中の夫が異国にいることを知るが、ロシェルのクロチルドに対する思いはさらに激流のようになるばかりであった。そしてある日、クロチルドは忽然と消えてしまい、ロシェルは街中を狂ったように探し回るが見つからなかった。本国に戻る命令が来て、やむを得ずモロッコを後にする。
そして今宵再び、ベルンの社交クラブに出向くと、そこにクロチルドがいた。二言三言会話を交わすが、クロチルドは去り、ロシェルも後を追わないのであった。
学生のころ、すでに閉館したシネ・ヴィヴァン六本木で初めて観た懐かしい映画だ。こういう映画がDVD化されるのはまことにうれしい。ぜひ、『ラ・パロマ』ほかシュミット作品を次々にDVD化してほしいものだ。シネ・ヴィヴァン六本木は、ミニシアターの草分け的存在で、シュミットはじめ、タヴィアーニ兄弟 、ビクトル・エリセ、ロベール・ブレッソン、エリック・ロメール、ジム・ジャームッシュ、ジャン=リュック・ゴダール、フレディ・M・ムーラーなどの映画が紹介されていくのも、この映画館を通してであった。
原作のポール・モーランは、自身も外交官のキャリアがあり、亡命先のスイスで、ココ・シャネルとのインタビュー記事をまとめた『獅子座の女シャネル』も著している、戦時中に人気のあった小説家だ。
ヘカテとは、ティタン神の一人で、冥界と結びつき、夜、妖怪、魔術を支配するとされるギリシア神話の女神である。霊界の女王として魔法使いたちの守護神となり、松明(たいまつ)を手に地獄の犬を引き連れて、深夜の狭い辻に、恐ろしい姿を現すと信じられた。このヘカテをクロチルドになぞらえて撮られたのが、本作品である。
ロシェルのクロチルドに対する愛は、当初通常の恋愛であったが、やがてそれは支配欲に代わり、嫉妬に狂い、独占したいという本能的欲求にまで極限化する。仕事も放ったらかしとなり、危うくクビにもなりそうになるが、ヴォーダブルの計らいによりクビは免れるものの、今度はシベリアに転任することになる。
クロチルドは、ロシェルにとってはファム・ファタール(運命の女)であり、男を破滅させる魔性の女そのものである。はじめクロチルドは、大人の普通の恋愛相手としてロシェルに対する。自由であり奔放であり、妙に周囲を気にすることもなく、恋もセックスもさせたい放題にするが、男の気持ちをわかってしまうと今度は、男を翻弄し、自分の虜になった男をからかいつつ、自分のために男がヒステリックになり狂気の表情を見せるようになるのを楽しむのだ。操られたロシェルは、恋を超え、クロチルドの魔性に翻弄され、身をもちくずし、仕事どころではなくなるのである。
ロシャルはクロチルドを探すために、獣のような形相で娼館の中をさまよう。そこは、薄暗く、細長く、臭いが漂ってきそうな狭い空間だ。カウンターにはバーテンがいるものの、壁づたいに男や女が並んでいる。女と抱き合う男もいれば、客を待つ女もいる。階段を少し昇ったところには秘密の真っ暗な部屋があり、卑猥な顔つきをした男が蝋燭を点し、そこにいる少女や少年の顔を順番に照らし出す。お客さん、どの子がいいですか、ということだ。
ダニエル・シュミットの作品には、『ラ・パロマ』(1974年)の前半にも見られるとおり、成人以外の<娼婦>がふつうに登場する。娼館において、成人の男が、成人の女や男、少女や少年を買うのであり、成人の女が、成人の男や女、少年や少女を買うのである。シュミット作品を観て、なぜあのシーンに子供がいるのか、誰かの付き添いか、娼婦の子が母親に付いてきたのか、と言った者がいたそうだが、娼館の中で佇み、あるいは遊んでいる子供は、みな娼館の<商品>なのである。クロチルドが消えたあと、欲望に狂ったロシェルが少年を犯したことを暗示するシーンもある。
こうして描かれる淫靡(いんび)の世界は、作品の主題とする美しく激しい純愛とは対蹠(たいせき)的な位置に置かれ、主題を一層明るく焙(あぶ)り出す効果を演出している。
ロシェルの着る白いスーツは、いかにも熱帯地方向きであるが、生地はリネンで、クリスチャン・ディオールがデザインしている。
撮影は、『今宵かぎりは』(1972年)、『ラ・パロマ』(1974年)でシュミットと組んだレナート・ベルタで、この後もシュミットとはコンビを組み、『人生の幻影』(1983年)、『トスカの接吻』(1984年)でも撮影を担当していく。他に、エリック・ロメールの『満月の夜』(1984年)、ルイ・マルの『さよなら子供たち』(1987年)も撮っている。
はじめ、厳かな紳士づらで登場するロシェルが、徐々に何かにとり憑かれたような表情を見せていくが、その変化していくプロセスを、ベルナール・ジロドーがうまく演じ分けている。
ラストで、現在に戻り、ロシェルがベルンの社交クラブに出向くと、そこにクロチルドがいるのだが、ここはクロチルドとそっくりの女がたまたまいた、とも解釈できる。ロシェルとの短いやりとりでは、ロシェルはクロチルドと信じ、相手がクロチルドでなければならない台詞を言うが、クロチルドの言葉は必ずしもクロチルド自身でなくても答えられるような言葉だ。頭の回る女性であれば、ロシェルの質問に合わせた回答をしうるということだ。現に、クロチルドがゆっくり去っていっても、もはやロシェルは後を追わない。もし本物のクロチルドだとしても、甘くほろ苦い思い出だけが残った、ということだろう。
明らかにロシェルの想像するシーンもある。久しぶりにクロチルドに会ったロシェルが彼女を抱き締めるうち、思い余ってクロチルドを岸壁から突き落とすシーンだ。単純に、愛の両義性を表わすシーンである。しかし、ロシェルの激情は止まらなかったのである。
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