監督:ヴィットリオ・デ・シーカ、脚本:オレステ・ビアンコリ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、ヴィットリオ・デ・シーカ、アドルフォ・フランチ、ゲラルド・ゲラルディ、ジェラルド・グエリエリ、チェーザレ・ザヴァッティーニ、原案・脚色・翻案:チェーザレ・ザヴァッティーニ、原作:ルイジ・バルトリーニ、製作:ヴィットリオ・デ・シーカ、ジュゼッペ・アマト、撮影:カルロ・モンテュオリ、編集:エラルド・ラ・ローマ、音楽:アレッサンドロ・チコニーニ、主演:ランベルト・マジョラーニ、エンツォ・スタヨーラ、93分、1948年、イタリア映画、イタリア語、原題:Ladri di Biciclette(自転車泥棒)
戦後間もないローマには失業者があふれ、今日も職業紹介所には男たちが押しかけていた。アントニオ・リッチ(ランベルト・マジョラーニ)もその一人であったが、運よくポスター貼りの仕事をもらえる。ただ、この仕事には自転車が必要であった。自転車がなけれが仕事はやらない、と言われる。自転車は質屋に入れてあったが、水汲みから帰るところであった妻マリア(リアネーラ・カレル)は、住居のアパートに入るなり、シーツをまとめて質屋に持っていった。そのカネを払い、質屋から自転車を取り戻したアントニオは大喜びし、翌朝、息子のブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)を前に乗せて一緒に出掛ける。ブルーノを置いて仕事に出たアントニオは、梯子に乗ってポスター貼りをしている最中、若い男に自転車を奪われる。すぐに追いかけたが見失い、失意のどん底に突き落とされる。・・・・・・
自転車泥棒というタイトルは、アントニオが自転車を盗まれたことを指してはいるが、ラスト近くで、自転車の見つからないアントニオが、悪い事と知りつつ、やむを得ず、放置してある自転車を盗むことをも指している。アントニオの自転車が盗まれるのは、開始から20分ほどで、それ以降は、アントニオとブルーノによる自転車探しである。
2年近くも失業し、自転車を質に入れていた男が、妻の協力でベッドのシーツまで質に入れることで、ようやく仕事に就くことができた直後の悲しみ、悔しさ、怒りが、そのままストレートに観ている側に伝わってくる。ほとんどが屋外シーンであり、ドキュメンタリー風な作風であることから、『靴みがき』(1946年)と並び、イタリア・ネオリアリズムの象徴的作品とも呼ばれるようになった。アントニオは、実際にローマで働いていた工員であり、俳優業はこれが初めてであり、ブルーノは素人の子供である。素人を起用することで、一層のリアリズムが生まれると考えたのだろう。
アントニオに同情し、友人が仲間を連れて、古自転車の市場を回るシーンに注目したい。セコハンの自転車以外に、チューブやフレーム、ペダルなどバラバラの部品も数多く売られている。自転車というものの<成り立ち>を見せてくれるシーンであり、この長めのシーンが入ったことにより、アントニオにとって、一台の自転車がどれほどの必需品か、どれほど重要な存在であるのか、が強調される。これ以降、アントニオの自転車は、単なる仕事の手段ではなく、本作品におけるアントニオの共演者へと格が上がるのだ。
ブルーノとのやりとりをはじめ、アントニオのこの一両日の心理の変化はきめ細かい。その移り変わりを描き出すには、やはり丁寧なシーンの畳みかけが必要なのである。どんなに貧乏でも、アントニオはハットをかぶり、しかるべき場所ではそれを脱ぐ。アントニオはまさにジェントルマンなのであり、誠実な男なのである。だからこそ観ている側は、「アントニオといっしょに」自転車を探すのであり、犯人とおぼしき男と話していた年寄りを「アントニオといっしょに」執拗に追い詰めるのであり、その犯人の男を見つければ「アントニオといっしょに」面罵するのである。
ラスト近く、アントニオとブルーノは、歓声の上がる競技場前に止めてある無数の自転車を何度も見、それら自転車群が何度も映される。いっぽう、反対側奥のアパートの入口に停めてある自転車は一台である。アントニオはブルーノを先に帰し、いよいよその一台を<盗む>のだ。だが、すぐに捕まる。群衆はアントニオを非難し警察へ行こうというが、持ち主の老人は、許すのだった。ブルーノはバスに乗り遅れ、父親の非行を目の当たりにし、涙ぐんでいた。それを見た老人の寛容な気持ちからであった。
二人は、多くの群衆とともに、夕刻の帰路に消えて行くのである。
アントニオが質に入れてあった自転車を受け取りにいくシーンでは、アントニオが待っている間、やはりシーツを質に入れた人がいるらしく、そのシーツを持って係が奥の棚のほうに行く。そこには、天井高くまで棚が組まれ、すべての段にシーツがぎゅうぎゅう詰めになっている。労働者が立ち上がるときだ、という集会のシーンもある。ある件でブルーノをはたいたアントニオが、ブルーノを慰めるためにレストランに入る。二人はたいしたものは食べられないが、隣の席では豪華な食事を楽しんでいる。
戦後ローマの貧乏な人々の社会を、露骨なまでに描写することを怠らない。しかしやはりこの映画は、プロパガンダ映画ではなく、親子と家族の物語であろう。ラストにしても、全く救いようがない。これからこの親子はどうしていくのか、そのことへの言及や示唆もない。おそらく、自転車がないのだから、また失業者に戻るしかないのであろう。
いろいろ考えさせられる内容であるが、映画でよかったというのは早計だ。現実のローマは、当時こんなふうであったのだろうから。
なお、アントニオが最初の仕事として貼る大判のポスターは、映画のポスターであり、リタ・ヘイワースの写真である。
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