映画 『靴みがき』

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ、原作:チェザーレ・ザヴァッティーニ、脚本:ヴィットリオ・デ・シーカ、チェザーレ・ザヴァッティーニ、セルジオ・アミディ、チェザーレ・ヴィオラ、アドルフォ・フランチ、撮影:アンキーゼ・ブリッツィ、音楽:アレッサンドロ・チコニーニ、主演:リナルド・スモルドーニ、フランコ・インテルレンギ、1946年、90分、イタリア映画、モノクロ、原題:Sciuscià(=ささやき)


『自転車泥棒』(1948年)と並ぶデ・シーカの初期の代表作。イタリア・ネオレアリズモと言われる、戦後イタリアの庶民生活を、力強くリアルに描き出した作品群の一つ。


戦後間もないローマ。

パスクァーレ(フランコ・インテルレンギ)と、友達のジュゼッペ(リナルド・スモルドーニ)は、馬貸し屋(今風に言えば、馬のレンタル屋)から馬を買うために、靴みがきをしてわずかな金を貯めていた。

ある日、ジュゼッペの兄の言い付けで、闇の毛布を売りに、占い師の老婦人宅を訪れるが、そこへ警官と名乗る三人組が現れる。しかしそのうちの一人はジュゼッペの兄であった。…

主役はパスクァーレとジュゼッペで、パスクァーレのほうが背も高く、兄貴風だ。

結局二人は少年院に送られることになり、少年院のなかでの仲間の少年たちとのやりとりなどが中心となる。


ジュゼッペには母親も父親もいる設定だが、パスクァーレは全く身寄りがない。

小学生の年齢の子供たちが、街頭で一列に並んで靴みがきの仕事をして食いぶちを稼ぎ、そのわずかな金を貯めて、いつも乗る馬を手に入れるのが二人の夢である。

子供が子供として、街中でたくましく生きていかねばならない現実と、他方で、ひと部屋に数人の子供が収容されざるをえない少年院で、知恵をはたらかせる子供たちの現実が、わかりやすく最小限のセリフとシーンで描かれ、笑うような場面もなく、ひたすら観客を悲劇的ドキュメンタリーのような展開に引きずり込む。


ストーリー的にもラストにおいても、少年らは救われず、実に絶望的な後味を残す映画だ。

「子供」というのが、無邪気一辺倒で、明るい未来を象徴する存在として描かれるのは、さらに時代が下ってからのことで、ここに出てくる少年らは、貧乏暇なしで教育も受けられず、大人たちの都合で犠牲になる、未来の見えない存在だ。


『禁じられた遊び』には、戦争に対する婉曲な批判を観てとれる。

この映画でヴィットリオ・デ・シーカはいったい何を伝えたかったのか。

戦後のイタリアの荒廃を、早く改善せよというメッセージか、子供たちの生活や教育に目を向けないとイタリアの将来はないぞという警鐘か。

彼は何でこんな映画を撮ったのか。


見方はさまざまであるが、メインのシーンとなる少年院はそのまま社会の縮図であり、二人の靴みがきの少年の運命が、二人と別な次元で翻弄されていくという、人間に共通の普遍的テーマを問題として観客に差し出したかったのではないか。


いずれにしても、種々のメッセージを圧縮して見せた、骨太な映画である。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。