映画 『手錠のまゝの脱獄』

監督・製作:スタンリー・クレイマー、脚本:ネイサン・E・ダグラス、ハロルド・ジェイコブ・スミス、撮影:サム・リーヴィット、音楽:アーネスト・ゴールド、主演:トニー・カーティス、 シドニー・ポワチエ、1958年、97分、アメリカ映画、原題:THE DEFIANT ONES(挑戦的なヤツら)


深夜、どしゃ降りのなか、一台の囚人護送車が、暗い夜道をひた走る。タイトルバックにアカペラで、男の口ずさむ歌が聞こえる。それを歌っているのは黒人のカレン(シドニー・ポワチエ)で、右手が同じく囚人のジャクソン(トニー・カーチス)の左手とつながれている。

対向車を避けようと護送車は崖に転落し、警察が着くと、二人の姿だけなかった。二人は手錠でつながれたまま、逃走したのだ。

警察は犬などを借りたり、自主的に応援にライフルをもってきた男たちとともに、二人のあとを追う・・・・・・


初めて観たが、骨太のアメリカ映画だ。まだ黒人の地位が確立されていないこの時期、後にアカデミー主演男優賞をとるまだ若い黒人の演技派俳優シドニー・ポワチエと、後々多彩な役をこなすことになるトニー・カーチスの組み合わせもおもしろい。

白人黒人としていがみ合っていても、手錠でつながれているので、どこへ逃げるにしてもいっしょなわけだ。鎖を切ろうと石で叩いたりするが、一向にはずれない。

夜を迎えるたびに、野宿する二人は、否応なく会話をせざるを得ず、話すうちに口論になったり、同調したりする。


ある村にやってきて、忍びこんだ店で住民に見つかり、ひと晩監禁されるが、村のリーダーらしき年寄り(ロン・チェイニー)が朝早くやってきて、二人の縄を解き、逃がしてくれる。

丘の上でまたまた口論となり、取っ組み合ってころげ落ちると、そこにライフルをもった少年がやってくる。少年をだましだまし家まで案内させると、夫に逃げられた少年の母親がいた。

この女は、こんな田舎から出ていくために、ジャクソンを男として選び、カレンを解放しひとりで沼を渡って逃げさせるが、女が言った沼は底なし沼であることを聞いたジャクソンは、女を捨て、カレンを救いに行く。


脚本がたいへんよい。決して単純な逃走劇にすることなく、二人の会話は全く別人の過去が、手錠によって出会った運命の皮肉を表わしもするし、逃走劇の合間には、警察の追撃も挿入される。この警察ときたら、うまくコンセンサスもとれず、だらしなさが演出されており、どこかのどかで、懸命に追うという姿勢は見られない。

カメラもいろいろくふうがある。カレンとジャクソン二人の神妙に話すシーン、手錠をしたままの喧嘩のシーン、ジャクソンと女の切実な会話のシーンなど、アップが効果的で、カメラも首を振るだけでなく、自らゆっくりじっくり動いていく。


時間の経過を表わすおもしろい演出が三ヶ所ある。転落した護送車のタイヤに雨が降りしきっていたのが止み、カメラが上にパンすると、雨は上がり警察が到着している。二人が村人に詰問されるが、リーダーの年寄りがあしたのことにしようと言ってみんなが立ち去ると、盛んに燃えていた焚き火が消え、カメラが動くと朝になっている。ジャクソンが女を抱き締めると、ここも女の顔を見せず頭の後ろをジャクソンの手が抱き締めるという珍しい演出だが、やがて窓のほうにカメラがパンすると朝になっている。


ラスト近く、列車に飛び乗ろうとする二人のシーン、逃走中、馬車に見つかりそうになり、そばにあった深い水たまりに二人が飛び込み、その崖を這い上るシーンなど、見所も多い。力強さがそのままこちらに伝わってくるのだ。

たしかに、俳優という仕事は、全身で演技できなければならず、その点はマリリン・モンローなど女優でも同じことだ。

話が飛躍するが、バレリーナの話とはいえ『ブラック・スワン』にしても、俳優は全身と素肌で勝負する仕事だ。

そうでなければ俳優じゃない。


邦題の脱獄という言葉は誤解を招く。監獄からの脱獄ではない。

なお、わずかに登場するドスの効いた顔つきの村人のリーダー役ロン・チェイニーは、狼男の映画で有名である。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。