映画 『大地震』

監督:マーク・ロブソン、脚本:マリオ・プーゾ、ジョージ・フォックス、撮影:フィリップ・ラスロップ、編集:ドロシー・スペンサー、音楽:ジョン・ウィリアムズ、主演:チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、ジョージ・ケネディ、ローン・グリーン、ジュヌビエーブ・ブジョルド、1974年、123分、原題:EARTHQUAKE


いわゆる典型的なパニック映画。それまでは『ポセイドン・アドベンチャー』の船の転覆が有名で、テレビで繰り返しやっていた。

これが日本に来たのは私が19歳のときで、有楽町まで観に行った。映画そのものより、初めて都心の映画館で映画を観たという印象が強く、自分にとっては忘れられない作品だ。


チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナーが誰なのかも知らず、映画への関心がここから始まったようなものだと思う。

その後ときどき観てきたが、そういう意味ではやや身びいきがあるかも知れない。すごい映画だと思う。


パニック映画の問題点は、パニックをどう見せるかだが、地震の場合は、地震の「あと」をどうするかも問題だ。多少の人間関係が描かれないと映画も薄っぺらくなってしまうが、災害映画でどんなに人間関係を描き込んでもたかが知れている。

そこで、大物俳優を起用し中心に据えることで、パニックだけの薄っぺらさを免れ、同時に人間も忘れていませんよという抗弁が成り立つ。


『北京の55日』(1963年)で共演しているこの大物二人のキャスティングは大成功で、どちらかというと細やかな演技派というより、存在感やパワーでスクリーンに乗るこの二人は、この映画に最適だ。そうは言ってもエヴァ・ガードナーは『キリマンジャロの雪』(1952年)『モガンボ』(1953年)『裸足の伯爵婦人』(1954年)などで一世を風靡したスター女優らしく、小さなところにもきちんと演技ができている。


解体予定の本物のビルを壊し、本物の道路や橋や家を作っては壊し、本物の看板やレンガを落として、リアルなシーンが出来上がっている。橋から落ちた子供の近くに高圧電線がちぎれて火花を散らしながらのたうちまわるシーンでは、子供のシャツの下に銀紙を入れている。しかもそれが映ってしまっているのはご愛敬か。

コンクリートの塊などは張りぼても使われているが、大事なシーンでは、塊の大きさから落下速度を計算し、その重さになるように鉄骨を組んでいる。スタントでも何度もリハーサルしないと死亡する可能性もある。危険なシーンにはスタントに保険をかけて撮影している。


センサラウンド方式という奇妙なことばが宣伝文句にもなっていて、これは、地震のシーンになると映画館の音響設備を操作して、客席にビビビッと振動を伝えるものた。観客に地震を実地に伝えるためで、アメリカでは老女が一人気分が悪くなって外に出てしまったそうだ。


いくら不仲であったとはいえ、ラストで夫は妻を救いに濁流に飛び込むが、二人は流れに押されて帰らない。

ストーリー的にも帳尻が合っていて、よくできた映画だ。


パニック映画はどうしてもグランドホテル形式になるが、この映画での数と組み合わせが手ごろだろう。エンターテイメントも忘れていない。キャーキャーわめく女の声も最小限にしている。

船の転覆、飛行機事故、ハイジャック、火災などと違い、地震のパニック映画には限界や矛盾がつきものだ。しかしそれでも、この映画はかなり努力のあとが見てとれる。

カーチェイス、ラブシーン、格闘シーンという、<アメリカ映画の三大必需品>もしっかり入っている。


音楽は大御所ジョン・ウィリアムズで、冒頭のスリリングなメインテーマなどさすがの腕前だ。

数ある災害映画のなかでは一級品に値する。


この映画を優れたパニック映画にしているのは、冒頭すぐにこの二大スターを出してしまうところと、すぐに死者一人を作ってしまうところだ。


またスリリングなメインテーマとともに流れるタイトルロールも、黄色で単純な字体でよい。

やはりパニック映画は、映画館で観たい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。