監督:フリッツ・ラング、脚本:テア・フォン・ハルボウ、フリッツ・ラング、撮影:フリッツ・アルノ・ヴァグナー、編集:ポール・ファルケンバーグ、主演:ピーター・ローレ、117分(オリジナル版)、99分(アメリカ公開版)、トーキー、1931年(昭和6年)、ドイツ映画、ドイツ語、配給:パラマウント映画、原題:M
見たのは、画面下に英訳の出るアメリカ版。「M」とは、ドイツ語で殺人者を意味する「Mörder」の頭文字。
1930年代のベルリン、少女ばかりを狙った連続殺人事件が発生。カール・ローマン警視正(オットー・ベルニッケ)をトップとする警察は懸賞金をかけるなどまでして必死の捜査を行なうが、犯人ハンス・ベッケルト(ピーター・ローレ)を捕らえることはできなかった。ある日、盲目の風船売りの男は、口笛を耳にする。その口笛は、エルジーと犯人が風船を買いに来たときにも聞こえていたのだ。その口笛を吹く男が犯人に違いないと思った風船売りは、仲間の若い男にそのことを伝える。彼は、犯人が遠くに行ってもわかるようにと、手近にあった白いチョークの粉で、手のひらにMと書き、誤って犯人にぶつかるふりをして、犯人の男のコートの背に、チョークで書いたMの字をなすりつけた。
犯人逮捕には、捜査の進展に業を煮やした一般市民や、暗黒街のボス(グスタフ・グリュントゲンス)までもが必死になる。・・・・・・
口笛は、グリーグ『ペール・ギュント』第1組曲第4曲「山の魔王の宮殿にて」の旋律で、テンポのよい旋律の影で少女殺害を目論んでおり、犯人の残忍さが浮かび上がる。冒頭、エルジーの住むアパートでは、時計で下校時刻を気にしながら食事の用意をするエルジーの母親の姿が描写され、定刻にちっとも帰って来ないエルジーを待ちわび、心配している。このシーンが冒頭に置かれたことだけで、この犯罪が冷酷非情なものという重しを置かれることになった。エルジーが持ち歩いていたボールが草むらに転がり、犯人に買ってもらった風船が電線に引っかかった後、そこから離れていく。エルジーはこの直前に殺害されたことを暗示する演出だ。
しかし、ストーリーはさほど単純ではない。犯人ハンスは追い詰められ、銀行の倉庫に逃げるが、そこは暗黒街のシンジケートが強盗を狙う対象でもあった。
銀行強盗団にようやく捕えられたハンスは、地下室に連れて行かれる。そこには強盗団のボスを含め、一般市民が多数いた。あたかも人民裁判の様相を呈し、興奮した市民からは、犯人を死刑にするよう狂気じみた絶叫が上がるのであった。
日本では昭和6年という時代、こうした骨太な犯罪映画がつくられていたこと自体、驚嘆に値する。犯罪そのものが映画の対象になることが少なかったころ、単純な犯人捜しに終わらない本作品は、その後、フィルム・ノワールなど海外に多くの影響を与えることになる。犯人捜査ではなく、犯人は初めからわかっているのであり、その残虐さと、犯人への市民の仕打ちまでをきっちり描き切った点も驚くに値する。フィルム・ノワールにおいては、多くの場合、怪しげな魅力の女性も登場するが、本作ではそれはなく、全くもって硬派の内容となっている。
少女誘拐殺人犯と銀行強盗を行なう悪党連中を同時に描いたのも興味深い。地下の犯人吊し上げでは、悪党のボスが市民に混じって少女殺害を非難するのは滑稽だ。カネを奪うより、少女を殺害するほうが罪が重いとでも言いたげだ。本作で唯一ユーモラスなシーンだ。
時代は、歴史上、「大衆」の台頭と重なり、やがてドイツはナチスが支配する。犯人にはかろうじて弁護士がつくが、地下でのシーンは、相手が殺人犯であるとはいえ、大衆のもつ勢いや判断停止状況を象徴しているようでもあり、別の意味でも興味深いのである。
これがデビュー作となるピーター・ローレは、当時27歳であるが、かなり太っており、目付きはギョロ目で、いかにも変質者のようだ。『カサブランカ』(1942年)ではスマートな顔立ちを見せている。本作は、ピーター・ローレの風貌や体躯、顔の演技、話し方の演技がなければ成立しなかったとも言えよう。コートを着ているシーンが多いので、出演シーンのほとんどで、顔と発声の演技が要求される。舞台出身の俳優は演技力が高いが、これはその後今日でも言えることである。
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