映画 『眠る男』

監督:小栗康平、企画:小寺弘之、脚本:小栗康平、剣持潔、撮影:丸池納、編集:小川信夫、照明:山川英明、録音:井上創一、美術:横尾嘉良、音楽:細川俊夫、演奏:群馬交響楽団、製作:群馬県『眠る男』製作委員会、主演:役所広司、クリスティン・ハキム、1996年、103分、配給:SPACE


企画の小寺弘之は、当時の群馬県知事であり、1996年に群馬県の人口が200万人に達したのを記念して、群馬県(前橋市)出身の映画監督・小栗康平に映画の作成を依頼したのである。地元をロケ地として活用した、いわゆる「ご当地映画」のはしりとなった。自治体が文化活動にかかわる試みが斬新でもあり、話題となった。こうしたわけで、製作は、群馬県『眠る男』製作委員会となり、県内の随所がフィルムに収められることとなった。


拓次(アン・ソンギ)は、山で転落事故に遇い、それ以来、無意識のまま眠るだけの生活を送っている。この男や「眠ること」の周辺を、家族やその友人、地元の人々の生活の断面を織り込みながら、思索的に静謐のなかに映像化しようと試みた映画である。

拓次の友人である上村(かみむら、役所広司)や、「メナム」というバーで働くティア(クリスティン・ハキム)の出番が他の俳優より多く、内容上も、ストーリーを緩やかにリードしている。クリスティン・ハキムは、インドネシア出身の女優である。


「眠る男」は、ラスト30分を迎えるあたりで他界する。これを契機に、上村は、大きな真っ黄色の満月や、ブロッケン現象を見ることになり、ティアは、それまでに遠くに小さくしか見られなかったニホンカモシカを、目の当たりに大きな姿で見ることになる。温泉の湯は少し熱くなった、というセリフがある一方で、水車小屋では、淡々と回り続ける水車の元で、傳次平(でんじへい、田村高廣)と少年リュウ(立川寛明)が物を作っている。


冒頭より、夢、精神、伝承、人間、善悪などについて、セリフのなかに問わずがたりに語られ、結論も出ないまま、人々の日常の暮らしのなか、時は過ぎていく。何が起ころうとも、冬の次には春が来る、というセリフに象徴されるように、時間だけは刻々と過ぎ去っていくのだ。それは、あたかも、「眠る男」の眠りの世界を再現したように、複雑怪奇で結論などありえないまま、現実の世界に具現化した夢世界なのであろう。そこには、右の反対は左といった二元論などや理論的筋道などはなく、ただ、時間的存在である人間が、悲喜こもごものうちに、さまざまな営みをもがきながら繰り返しているのみである。


ティムは、「南からきた人」と呼ばれているが、映画終盤には、ティムらところどころに登場した「南からきた女たち」の姿は見えなくなった、とある。彼女は、さすらいの象徴として描かれており、あちらこちらに移動し、ラスト近くまでティムは、微笑さえ見せず、「眠る男」とも面識がない。しかし、冒頭より、「眠る男」と対をなす存在として描かれており、彼女の意志や行動は、あたかも「眠る男」の夢の再現とみることもできる。だからこそ、何度か面識のあった上村と、彼が「眠る男」拓次との想い出となっている山奥の廃屋で、ティムは偶然にも出遭うことになるのでる。


ティムの衣装は、シーンごとに異なる。彼女は、日常性を逸脱した存在なのである。こうした存在はまず、日常と非日常の端境にいるワタル(小日向文世)と先に言葉を交わしている。ワタルは知的障害のある青年であるが、映画冒頭から出て、肝心なシーンで中核となっており、本作品のテーマを握る存在である。ラスト近く、貸し自転車屋のオモニ(八木昌子)は、駅の改札わきに黙ってうずくまるワタルの姿を見て、「あんなふうに静かでいられたらいいのに」とつぶやく。


「眠る男」の<眠り>の世界を、他界後の<現実>の世界へと橋渡しする役割は、観世暁夫率いる銕仙会(てつせんかい)の能舞台のシーンである。このシーンが入ることで、方向性も質量も不明だったそれまでの流れに対し、映画としてのラストへの向きと厚みが予言されている。


撮影は、ほとんどが固定カメラで、遠景でも近づくことをせず、そのままだ。バストショットや、ましてやアップなども一切ない。それだけに、たまにパンすると刺激的である。ところどころ、わからぬ程度にCGが使われている。


時を超えるという意味もあり、秋~冬~春~初夏といった季節の移り変わりは、容赦なく出現させられている。山々、大きな河川、渓流、木立、森、林、海など、自然の風物を丹念に取り入れているほか、「眠る男」の横たわるへやにある絵画など、時折映される画家・平松礼二による日本画にも注目したい。

風景とともに流される弦楽の調べも、せつなく美しい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。