アニメ映画 『名探偵コナン から紅の恋歌(ラブレター)』

監督:静野孔文、脚本:大倉崇裕、原作:青山剛昌、撮影:西山仁、編集:岡田輝満、主な声の出演:高山みなみ、山崎和佳奈、2017年、112分、東宝。


ある日の早朝、京都・東山のある屋敷で、百人一首の団体「皐月会(さつきかい)」の会員である矢島俊弥が、ビデオで、昨年の皐月杯の映像を見ながら、カルタとりの練習をしていた。そこに何者かが侵入し、正面から日本刀で撲殺されてしまう。・・・・・・


いわゆる「和風もの」にして「芸術もの」を題材としている。コナン・シリーズにおける新規開拓は、これからも多方面に広がっていくだろう。

京都と大阪が舞台になるせいか、コナンらに並び、ほぼ最初から、服部平次と遠山和葉が出ずっぱりとなる。和葉の大戦相手となる大岡紅葉も、ほとんどレギュラー並みに登場する。


本作品が他のシリーズと比べ個性的なのは、短歌を軸にした展開を見せるところや、犯人らしき人物が二転三転し、真実はようやくラストで明かされるところまで、話を引っ張っていけたところだろう。

ところが、幸か不幸か、この展開が仇となってしまった。


全体に、「映画」になっていないのだ。映画とは映像である。映像のカットやシーンの切り替え、編集である。言葉だけの羅列なら、読み物に過ぎない。

冒頭、スタジオのシーンから、それは見られる。イレギュラーメンバーが登場するからには、人物紹介がてらの台詞はやむを得ないが、その後のキャラクターの台詞一つ一つがどれも長く、説明調に過ぎる。台詞を削って、短いシーンを瞬間的に挿入させるなど、もっと他の方法があったはずだ。この、一つ一つの台詞が説明的で長いのは、全編に渡る。それをわかってか、多少のくふうをしているところも見られるが、この傾向は全編通じ、変わっていない。

第二に、台詞と台詞の間に、間がなさすぎる。AとBとの会話でも、同一人物の話でも、間がないから忙しい。削ってもよい台詞も多い。

第三に、台詞シーンが多くなったためか、和葉や紅葉の声優の発話の抑揚がなくなってくるところがある。声に幅がないのか演技が未熟なのか、声優の基本訓練だけで乗り越えようとしているようだ。

加えて言うなら、全体に女性の登場シーンが多いからやむを得ない点もあるが、和葉の声がうるさい。前半の爆破シーンから、ラストの池のシーンまで、絶叫調の話し方が多く、耳障りだ。おそらく、本作品では主役級であり、そういう演出を監督が容認しているからではあろうが、登場回数や登場のしかたを含め、節度がない。

後半にも、和葉を登場させるためだけに作られたキャラクター、枚本未来子を。各シーンに交えていけば、少しはそういった傾向が緩和されたはずだ。


皐月会の会長である阿知波自身が真犯人であることに向け、物語が展開するが、本作品の中軸となる犯罪の動機は、そのほとんどが、阿知波の口から出る「語り」であり、皐月会に関する複雑ななりゆきも、阿知波の「語り」によっている。

語りだけではなく、部分的にも映像を入れてほしかった。語りだけで済まそうとするから、観ていてわかりにくいという人も出てくる。例えば、いろいろな経緯の一部が、捜査側の調査で判明したなど、他の人物が明らかにした、など、くふうすべきであった。

その動機についても、あれだけの爆破事件を起こすほどの動機になるのか、という点で、アンバランスである。冒頭とラストはアクションを置こう、という意図は見え見えだが、仮にそうなったとしても、それに応じた動機や理由がなければ釣り合わない。冒頭の爆破事件で、枚本は右腕を負傷し、代わりに和葉が出ることになったが、その意味では理解できるが、振り返ってみて、実際には、阿知波が海江田に頼んだとはいえ、百人一首のカルタとりを愛してやまない阿知波の動機として、そこかアンバランスである。


私は映画ファンであり、コナンファンではないので、どうしても「映画」としてみてしまう。他の作品に比べ、本作品は、「映画」というより「テレビ」であり「小説」であった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。