映画 『砂の器』

監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍、山田洋次、撮影:川又昻、編集:太田和夫、美術:森田郷平、録音:山本忠彦、照明:小林松太郎、音楽:芥川也寸志、主題曲作曲・ピアノ演奏:菅野光亮、主演:丹波哲郎、森田健作、加藤剛、緒形拳、1974年、143分、松竹


昭和46年6月24日早朝、国鉄・蒲田駅操車場内で、男の撲殺死体が発見された。

警視庁捜査一課警部補・今西栄太郎(丹波哲郎)は、所轄の西蒲田警察署刑事課巡査・吉村弘(森田健作)と捜査に当たる。遺留品がなく身元も判明しないため、現場に落ちていたトリスバーのマッチだけが唯一の手掛かりであった。二人の男が話していたとされるその店の従業員から、ズーズー弁で話していた年配のほうの男が、若いほうの男に、「カメダはどうした」などと言っていたことを知る。初め、人名かと思われた「カメダ」は、土地の名前ではないかとされ、今西と吉村は、秋田県の羽後亀田の駅に降り立つ。・・・・・・


当時、映画館で観てからも、幾度となく観ている映画だ。映画館では、後半で、すすり泣く人が多かったのを覚えている。


開始早々、一人の男児が「砂の器」を作って板の上に並べる。そこに風が吹き、その器が崩れ、タイトルが出る。内容を象徴したシーンだ。


二時間を超える映画だが、捜査状況と終盤に向けての脚本がしっかり書き込まれ、その時間配分のバランスがとれており、その上に、苦労を厭わないカメラワークとベテラン俳優の演技、哀愁帯びる主題曲が乗せられ、戦後日本の1ページを飾る傑作となった。


いっときは解散した捜査本部のメンバーが再招集され、和賀英良(本浦秀夫、加藤剛)の情婦・高木理恵子(島田陽子)を追うことになるまでが54分、犯人が和賀であることが明らかとなり、捜査会議で今西が事実関係を述べはじめるのが87分頃で、その余、ラスト前までの50数分が、本浦千代吉(加藤嘉)と少年時代の秀夫(春田和秀)の放浪の旅と、現在の秀夫すなわち和賀のコンサートホールでの『宿命』の演奏を、交互に映すことに当てられている。


カメラは、東京の蒲田付近をはじめ、夏の秋田県、島根県、岡山県、石川県、大阪府を動き回る。特に、今西が、殺害された三木謙一(緒形拳)について事情を聞くため、当時、三木の勤務地であった亀嵩村に入り、三木をよく知る桐原(笠智衆)を訪れる前後の風景や、本浦親子が旅に出るとき、路上から故郷の村を眺めるシーン、旅の途中、秀夫が遠くに、同い年くらいの生徒たちのようすを見るシーンなど、望遠で撮られるているが、そのカメラを設置する位置など、かなり歩き回ったに違いない。苦労を厭わぬ撮影の亀鑑と言えよう。

親子の旅は、四季を通じて撮影される。つららの下がる漁村や海岸沿い、花の咲く畑、草深い畦道など、場所だけでなく、時間の苦労も偲ばれる。

この映画には、当時の国鉄の列車や蒸気機関車が何度か映る。外見は、当然狙って撮ったものだが、駅や車内、ホームの風景も含まれ、昭和の懐かしいひとコマを見るようだ。


多くの俳優陣、わき役陣が登場するが、まさに適材適所だ。相手によって互いに運命が翻弄される人間ドラマであるが、俳優陣にわざとらしい演技力が必要なシーンがない。それはつまり、こういう状況ならこうなるであろう、という、まさに日常の表情だけでいいからだ。しかし、その日常の延長線上に生まれる動作の演技ほど難しいものはない。

それにしても、初めて本浦親子を発見したときの緒形拳がつくった表情、今西が訪ねて行ったときの本浦千代吉を演じた加藤嘉の演技は、驚嘆に値する。

その他、春川ますみ、菅井きん、今井和子、野村昭子、水木涼子、殿山泰司、山谷初男、花沢徳衛らの顔が見られるのもうれしい。


最後まで出続ける主役二人に、さほど演技力や滑舌のよくない丹波と森田を置き、後半に向け、演技達者の俳優陣を登場させていったのは正解であった。


松本清張の推理小説は、人間ドラマが盛り込まれ、興味をそそる展開をもつものが多く、映画化してもほぼヒットする。本作品も、多少、原作と異なるところはあるようだが、高い評価を受け、多くの人に観られ、語り継がれてきた作品だ。こうした映画が日本にあることを誇りに思う。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。