映画 『鉄道員』

監督:ピエトロ・ジェルミ、脚本:アルフレード・ジャンネッティ、ピエトロ・ジェルミ、ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ、原案:アルフレード・ジャンネッティ、製作:カルロ・ポンティ、撮影:レオニーダ・バルボーニ、編集:ドロレス・タンブリーニ、音楽:カルロ・ルスティケッリ、主演:ピエトロ・ジェルミ、エドアルド・ネヴォラ、1956年、118分、モノクロ、イタリア語、原題:Il Ferroviere(鉄道員)


アンドレア・マルコッチ(ピエトロ・ジェルミ)は、50歳を迎える鉄道の機関士、妻サラ(ルイザ・デラ・ノーチェ)、アンドレアの妻、長男で無職のマルチェロ(レナート・スペツィアリ)、長女ジュリア(シルヴァ・コシナ)、次男で、兄たちと年の離れた次男サンドロ(エドアルド・ネヴォラ)の5人家族で、アパートに住んでいる。ジュリアには、レナート(カルロ・ジュフレ)という恋人がいた。

サンドロは父親が大好きで自慢に思っていた。この日も、アンドレアが運転してきた特急が着くころを見計らって、駅まで父を迎えに行った。一方、ジュリアは、レナートの子を宿しており、食事の席で、サラからそのことを聞いたアンドレアは、しぶしぶ結婚を許すことになり、同僚で親友のリヴェラーニ(サロ・ウルツィ)たちを招いて、披露宴まで行った。だが、その子は死産となり、それを機に、レナートとジュリアの間はギクシャクしていく。

これらの出来事があり、心が晴れないなかで機関車に乗ったアンドレアは、線路に入ってきた人間を轢いてしまう。これはやむを得ないことであったが、その後、赤信号を見落として、危うく他の貨物列車と衝突しそうになる。アンドレアは停職処分となる。・・・・・・


たしかに名作であり、名作ゆえに、長い間、レビューすることを避けてきた作品である。本当にすばらしい作品には、それがどんなジャンルの映画であっても、レビューが書きにくいものだ。


アンドレアは、いわゆる昔気質の男で、たたき上げの運転士であり、その性格からして友人も多く、信頼も厚い。それだけに、厳格な一面もあり、子供に対しては寛容ではなく、あまり心を開いて接するということができない。このアンドレアと子供たちの間を取り持つのが、母親サラであった。サンドロはそんな父親が大好きで、機関士であり友人も多い父を誇りに思っていた。


本作品が、公開直後のみならず、今日まで各国で賞賛を浴びるのは、ここに人間の生活、さらに言うなら、家族の実態が、ありのままに描かれているからだろう。決して贅沢な住まいとは言えないアパート、たたき上げの頑固な父親、家族の要となる母親、子供のわがまま、大人たちの友情、さらに、アンドレアの職場における労働組合の動きやスト、アンドレアのスト破り、賃金のカットなど、社会的情勢にも言及している。

大笑いするようなエピソードもなく、シリアス一辺倒で進みながら、なおそこに映画としてのエンタメ性を盛り込むことに成功している。これはストーリー展開とカメラワークの秀逸さによるものでもあるが、子役の目線を中心に置き、台詞などにおいて準主役の役割を母親に置いたところが成功の一因である。


サンドロ役のエドアルド・ネヴォラは、長めの台詞やその掛け合いでもみごとな演技を見せると同時に、笑顔、悲しい表情などを、うまく使い分けている。といって、サンドロが、ふつうのいたずらっ子の少年であることを描くのも忘れていない。サンドロがサラの横になるベッドに入り込み、母とする会話は、本作品の核心をなす。


時間的には、ある年のクリスマスから翌年のクリスマス前後までの一年を描いている。シリアスな約二時間のドラマは、終盤に向け、やがて少しずつ光がさすように好転していく。この、歩くような展開もよく、アンドレアはギターを持ったまま死んでしまう。父のいなくなった家で、サンドロらの出かけるのを見守るサラには、隣人の挨拶も耳に入らない。子供たちの将来を憂える母のこの表情をつくるのは、女優としても難しかったであろう。しかもここは、ラストシーンとしてわりと長くカメラが回っている。


カメラワークに驚くようなものはないが、前半、アンドレアの心中を思わせるように、その複雑な心境と、列車が進んでいく線路が、交互に映される。このシークエンスは効果的だ。他にも、アンドレアが機関士ということもあってか、進行方向の線路がしばしば映る。線路そのものが、アンドレア、あるいはこの家族の未来を、未知のものとして暗示しているかのようだ。


音楽は、短調で三拍子の旋律にもかかわらず、映画音楽集には、必ず入るほど有名だ。哀感を帯びたメロディが、作品の雰囲気をうまく捉えている。途中途中に入る aggressive なOSTにも注目しておきたい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。