監督:山本泰一郎、脚本:古内一成、原作:青山剛昌、撮影:野村隆、編集:岡田輝満、音楽:大野克夫、主な声の出演:高山みなみ、山崎和佳奈、山口勝平、2004年、107分、東宝。
劇場版『名探偵コナン』シリーズの第8作目。
第3作目の『世紀末の魔術師』(1999年)に次ぎ、怪盗キッドが準主役級で登場する。
本作品も、『沈黙の15分(クォーター)』(2011年)同様、「<コナン劇場版>固有のファン」には、あまり評価されていないようだ。
時間配分を見てみると、全編107分のうち、始まってから、ゆりかもめの上でコナンがキッドを取り逃がすところまで、機内で牧樹里が殺害され、犯人が酒井なつきと判明するまで、飛行機が室蘭の崎守埠頭に着陸するまで、と、ほぼ正確に三等分されている。
怪盗キッドは、舞台が、汐留の劇場「宇宙(そら)」に移ってから、わりとすぐに登場し、シーンが飛行機の二階席に移り、遅れて搭乗した新庄功に変装し、蘭と操縦を交替して機外に出るまで、事実上ほとんど「出演」している。ラストでの救急隊員にも化けていたことからすれば、本作の事実上の準主役は、怪盗キッドということになる。
例えば、アニメ『AKIRA』は、大友自身の手で漫画をだいぶ改変して作られているが、その描こうとする世界は原作と大きく変わらない。超能力者の子供たちを巡る軍や反政府勢力の争いを、近未来の大都市部を中心に描いたSF作品であるが、中軸となるのは、金田と鉄雄であり、幼いころから親しかったこの二人のドラマと見ることもできる。鉄雄は常に金田の「隣り」にいた存在であり、金田にとっての鉄雄の存在も同じであった。この基軸があってこそ、壮大なドラマが揺るがぬ展開を実現できている。
本作品のコナンとキッドは、まさに、この、金田と鉄雄であり、蘭はケイに相応する。ただ、『AKIRA』と異なるのは、こちらはあくまで少年になっているコナンの推理ドラマであり、シリアスな政治的色彩を帯びるSFではなく、エンタメ性を最優先した内容であるという点だ。
元々、スターサファイアを守ってほしい、という樹里からの依頼で物語は始まる。そこが物語のテーマと思っていると肩透かしを食う。なぜなら、その持ち主の樹里は中盤で殺害され、それまでの樹里の行動によって操縦士二人が倒れ、飛行機は変装したキッドとコナンの手に委ねられる。しかも、そのスターサファイアは偽物であり、キッドが一瞬で鑑定し、盗むのを諦めている。
樹里殺害の犯人を、コナンが、妃英理の声で指摘するが、その推理には、機内でコナンが見聞きしたほとんどすべての要素が取り込まれており、むしろその推理のためにこそ、それまでの細やかな描写があったと言える。ここにくるまでに、スターサファイアが偽物であると知ったキッドは、もはや殺害事件以前にこの場所に用はないはずであるが、新庄功に変装したままそこに居続けているほうが不思議である。飛行機であるから脱出できないと思っていたにしては、ラストでは脱出するのである。いわゆる、コナンに対するキッド流の<仁義>であると解釈するしかない。
コナンとキッドの操縦、次いで、コナンと蘭の操縦シーンになり、危機が続くなか、ようやく室蘭に着陸するまでに、コナンと蘭の相思相愛ぶりが挿入されるが、飛行機の操縦という重責を負い、心細くなった蘭が、思い余ったとはいえ。新一に愛の告白をするのは珍しい。それでも、この飛行機の着陸を導くという<現実>については、キッドの活躍や、コナンたちに対するキッドの思いのほうが支配的である。
本作品は、『沈黙の15分』の白鳥警部に変装したキッドに似て、全編がキッドとコナンの物語であり、コナン同様、『沈黙の15分』で湧いたキッド人気を意識した作品と言える。『沈黙の15分』では、ラストで、キッドが新一に変装し、コナンに対し、<仁義>を果たすが、本作品では、序盤でいきなり新一に変装して登場する。その大胆な意外性こそ評価されていい。他にも、いろいろお笑いシーンを小まめに散りばめている。本作品はむしろ、お笑いのほうに力点がある。
序盤での新一に化けたキッドの蘭に対する台詞、屋上でコナンとの闘いで、トランプ銃を用意するため、蘭の声真似をしてキッドの眼をそらす、機内放送に対し、本当は室蘭だよな、と言う元太に、光彦と歩美がシッ!というシーン、などなどお笑い要素は豊富だ。
こうして、気軽に見られ、笑うこともできるアニメとして、特に糾弾されるような作品ではない。
あえて言うなら、几帳面に整理されてつくられただけに、時間的に三つに分けられたステージが、ステージごとに独立し過ぎでしまっており、それぞれ相関関係にないことのほうだ。ストーリー上、三分割のそれぞれが、それぞれにかかわりをもつようなストーリーにできたなら、さらに重層的な楽しみを味わえたかも知れない。おそらくこれは、<キッド-コナン>という基本軸でクリアしたつもりだろうが、舞台俳優などを含め多くの登場人物があり、もっと華やかなエピソードを入れたり短い回想シーンを挿入するなどしたりしても、二時間枠のなかに収めることは充分可能であったはずだ。几帳面であるからこそ、目暮警部などをとって付けたように、ラスト近くにだけいきなり登場させざるを得なくなっている。
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