監督:トッド・ウィリアムズ、原作:スティーブン・キング、脚本:スティーブン・キング、アダム・アレッカ、撮影:マイケル・シモンズ、編集:ジェイコブ・クレイクロフト、美術:ジョン・コリンズ、衣装:ロレイン・コッピン、主演:ジョン・キューザック、サミュエル・L・ジャクソン、2016年、98分、原題:Cell
コミック作家のクレイ(ジョン・キューザック)は、ボストンの空港に着き、一年間別居中の妻と息子へ電話をかけるが、充電切れのため、公衆電話からかけ直す。小銭がなくなり追加しようとしたとき、周囲の人々が突然震えだしたり暴れ出したりする。襲い掛かる者もいるため、何とか地下に逃げ、地下鉄に乗り込むものの、電車は動かない。居合わせた車掌のトム(サミュエル・L・ジャクソン)と協力し、線路を歩いて地上に出ようとする。そこでも暴徒化した人びとに襲われ、辛くも地上に出て、あるアパートの一室に隠れる。・・・・・・
携帯電話で通話するとその人が凶暴化する、という設定のようだから、携帯を使っている人々、つまりほとんどの人々が、どこにいる人であっても凶暴化するということのようだ。どちらかと言えば、ゾンビ映画のジャンルに入るだろう。
しかしながら、名だたるゾンビ映画の足元にも及ばぬ仕上がりとなった。ゾンビ映画といえども、その由来や因果関係が、曲がりなりにも随所で説明され、その上で、薄気味悪いゾンビ集団の歩く姿などがおぞましく感じられるのだが、本作品には、なぜ携帯で話すとゾンビ化するのか、その原因や結果などについて、一切語られていない。いわば、雰囲気ゾンビであって、構成力もストーリー性もなく、行き当たりばったりの並列つなぎ映画だ。
登場人物を、必要とあれば、あるところで出し、必要なくなれば、あるところで消していくのは、百歩譲ってやむを得ないとする。そのつど落ち着く先の寝泊まりする場所や、そこで出会う人々も、たまたまそこにあった・そこで出会ったということなのだから、これもやむを得ないとしよう。
ところが、ストーリー上の基本となる因果関係が語られていないので、そこで出会うことの意味、消されていく意味が不明で、観ている側に共感や感情移入ができないのだ。
赤いフードを被った男は、実在したのか。架空の存在なのか。空港でパニックは始まったとき、クレイのかばんからすり落ちた絵のなかに、フードを被った男のスケッチがあった。一瞬だがそれを見せたということは、赤いフードの男は、クレイの幻想の中に出る人物であって、クレイが、その男を、パニックになった人々の象徴として脳裏に描いているのかとも思われるが、これについても、これを推察させるような明確な台詞や演出がないので不明のままである。
クレイと妻子は別居中であったが、ようやく家に着くと、息子からのメッセージが冷蔵庫にあり、ママはあいつらになってしまったことがわかり、しかも、そのあとすぐ、ゾンビ化した妻とクレイが闘うシーンもある。
ようやく一件落着し、急に場面が転換し、クレイが息子と線路を遠くへと歩いて行くところでエンディングとなる。
陸上競技用トラックでゾンビを大量に焼き払うシーンなど、大勢のエキストラの使用など、カネをかけたところもあるが、全体の画面が暗く、明るくなるのは、序盤で、クレイらが地上に出るシーンとラストくらいだ。映像上も、ストーリーと同様、全くメリハリがない。会話シーンも、ぶつぶつ語り合うシーンの連続だ。
ストーリーにも映像にもメリハリがないのだから、エンタメ性があるわけがない。
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