監督・脚本:デヴィッド・ロウリー、撮影:アンドリュー・ドロス・パレルモ、音楽:ダニエル・ハート、主演:ルーニー・マーラ、2017年、92分、原題:A Ghost Story
ゆったりと建つ平屋に、C(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラ)の夫婦が住んでいる。ある日、交通事故で、Cは死亡してしまうが、誰もいなくなると、白い布がかけられた寝台から、Cは起き上がり、あたりをさまようようになる。
Cは自宅に戻ると、Mの悲しみを目の当たりにするが、その後もMの生活を、亡霊として脇にいて見守る。・・・・・・
冒頭近くで、Mが、引っ越し用の荷物を運び出したあと、カメラが左右にパンして、その長回しの意図を図りかねたが、この映画には、あちらこちらに長回しのシーンがある。タルコフスキーの長回しも退屈であるが、理屈上は、それなりの意味や意義があってのことであった。本作品の長回しは、定点でも移動があっても、そうすることの意味が不明であり、ただの監督の趣味としか言えない。
何回も書いてきたように、監督が脚本を兼ねると、とても優れた映画ができるか、駄作になるか、のどちらかにはっきりと分かれる。脚本が複数いて、そのなかに監督が含まれる場合はそうでもないが、独り占め状態であると、往々にして駄作が生まれる。
台詞が少ないぶん、映像で見せようとしているのだろうが、土台部分が脆弱なので、きれいな映像や静かなシーンが連続しても、単に味わいのなさを強調するだけの逆効果になってしまっている。
まさに、時空を超えたゴースト・ストーリーとしたかったようだが、低予算でこの尺でも、もっといい作品はたくさんある。こういう作品を作る監督の多くは、本人が映画を観てきていない場合が多い。そこで、勢い、自己中映画が出来上がるのだ。奇を衒ったつくりであるから、一部の変人や団体は推奨するだろうが、大方の観客には受けない。
そもそも、ストーリー自体に統一感がなく、因果が成り立っておらず、したがって観客の感情移入は期待できず、ギリギリのところ、監督の製作意図を理屈の上でだけでも捉えようとする視聴者にも、まるで雲をつかむような話に終わるであろう。
高校生の部活動が、文化祭で上映する作品ならわかるが、プロとして、ひと様からカネをとれるような作品とは言えない。
ルーニー・マーラの美貌ありきの作品でもあり、これさえなければ、全く話にもならない映画である。
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