監督・脚本・原作・絵コンテ・編集:新海誠、製作:市川南、川口典孝、撮影:津田涼介、音楽:RADWIMPS、主な声の出演:醍醐虎汰朗、森七菜、2019年、114分、東宝。
なぜ、ここに、このキャラが?といった感じで、『君の名は。』のキャラクターが、ところどころに出てくる。
16歳の森嶋帆高(もりしま・ほだか)は、家出をして、東京に向かっている。高1で身分証明書もなく、バイトもできない。メシを食うカネにも困り、ハンバーガーショップでコーヒーだけ飲み、落ち込んでいるところに、これ上げる、と言って、ハンバーガーを置いていった店員がいた。それが、天野陽菜(あまの・ひな)であった。
一年前、陽菜は、病床にある母親を看病をしている病室の窓から、雨模様の外を見ていた。すると、空を覆う雨雲の一部が切れて、陽が射しているところがあった。病院を出て、その場に向かうと、そこは、JR代々木駅近くの廃墟となっているビルで、その屋上にある鳥居の周辺に、陽は当たっていた。陽菜は、鳥居をくぐりぬけると、大雨は止んだ。自分には、雨を晴れに変える晴れ女の才能があると自覚する。しかし、その能力を使うごとに、陽菜のからだは透明化していってしまうのであった。晴れ女の才能は、最後には人柱になるという代償によって支えられていたのだった。
陽菜も、彼女に出会った帆高も、そんなこととは知らず、雨の続く天気を晴れにするという仕事をインターネットで募ると、次々に仕事の依頼が舞い込んだ。・・・・・・
『言の葉の庭』(2013年)を思い出させるような、雨のシーンがほとんどである。晴れ女の話であるので、天気はほとんど雨という設定となったのだろう。
陽菜は実際には14歳であり、帆高は途中でそれを知るが、それまでは18歳という陽菜の言葉を信じていた。帆高はいつの間にか、陽菜に淡い恋心を抱くようになっていた。天に消えた陽菜を、帆高が追って、天空でようやく互いの手を取り合い、大空を舞う。ラストに向けてのこのシーンは圧巻だ。
3年後のシーンとなり、帆高は地元の島の高校を卒業し、また東京に出てくる。以前、陽菜の住んでいたJR田端駅近くに来ると、そこに陽菜が立っていた。ハッピーエンドに終わらせている。
映像は、作品が新たになるほど、質が高くなっている。そこにあるものの描写だけでなく、その背後の書き込みなどが丹念だ。細やかな情景描写や、実際の新宿駅周辺、歌舞伎町、山手線沿線、都心の俯瞰図は、相変わらずすばらしい。雨の描写も、降っている雨、窓に当たる雨、地面に落ちる雨、水たまりに落ちる雨、顔に落ちる雨などなど、それぞれに表現が異なり、まさしく、質の高い雨表現のアニメーションとなっている。
ただ、新海誠の信者でもファンでもないのでズバリ言わせてもらう。
映像のすばらしさに比例するほど、中身が充実していない。大まかなストーリーはあり、コミカルなシーンもあり、各種の感情を織り交ぜた努力は認めるものの、映画としてのエンタメ性はどこに行ったのか、と思うのだ。悲劇であれ喜劇でれ、歴史ものであれサスペンスであれ、エンタメ性がなけれな映画とは言えない。エンタメ性とは、ストーリー上のメリハリであり、牽引力である。ストーリーは行き届いていても、映像や編集が追いついていない映画というのはたくさんある。特に、心理ドラマや犯罪ものは、映像化が難しく、そういった作品は多い。本作品は、その逆で、映像は優れているが、それに見合うだけの内容を維持しているとは言い難い。観ていて、そのアンンバランスが気になる。時間が前に進めば、エンタメ性があるというわけではない。回想シーンが入っても、時系列が前後しても、エンタメ性があれば映画となる。
淡い恋や架空の世界を描き、観る者に、夢や希望を与えるという点では、映画やアニメの道理にかなってはいるが、新海誠に、描きたい中核のものがあるとすれば、それらは、『言の葉の庭』までに、すでに出尽くしているのではないか。新海ワールドなる言葉もあるが、ほわーっと文字通り宙に浮くような内容は、観る者の心の奥にうったえない。『言の葉の庭』を境に、興行収入は伸びており、これは一般大衆に受けがよかったということの証明であるが、新海自身や多くのスタッフが苦労して質の高い映像を作っても、それに見合う内容でなければ、いずれメッキははがれ、背伸びした作品の連打という流れになってしまうだろう。
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