監督:ナディーン・ラバキー、脚本:ナディーン・ラバキー、ジハード・ホジェイリ、ミシェル・ケサルワニ、ジョルジュ・カッバス、ハーレド・ムザンナル、撮影:クリストファー・アウン、編集:コンスタンティン・ボック、音楽:ハーレド・ムザンナル、主演:ゼイン・アル・ラフィーア、2018年、126分、レバノン映画、アラビア語、原題:کفرناحوم(=不貞)
舞台は、レバノンの首都ベイルートの貧民街である。シリア難民の子ゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)は、子沢山の家の長男に生まれ、現在12歳くらいである。くらい、というのは、両親が出生届を出さず、はっきり記憶もしていないためである。
ある日、ゼインは、原告として、女性弁護士ナディーン(ナディーン・ラバキー監督自身)に付き添われ、法廷に入る。訴えられたのは、ゼインの両親である。裁判長に、なぜ両親を告訴したのかを尋ねられ、ゼインは答える、「僕を生んだからだ」と。
現実は、この法廷であり、その後は、ゼインの回想のかたちをとり、さまざまなエピソードが盛り込まれる。
ゼインのすぐ下の妹サハル(シドラ・イザーム)は、11歳くらいであったが、両親の知り合いの男アサード(アラーア・シュシュニーヤ)の妻として家を出されることになる。サハルを出すことで、多少とも生計を成り立たせることができるからであった。ゼインは猛反対したが叶えられず、結局、家を出る。
放浪の末、ラヒル(ヨルダノス・シフェラウ)という黒人の女と知り合いになる。ラヒルには、ヨナスという0歳児がいた。ある日、ラヒルが家に戻らないので、ゼインはヨナスを連れて、放浪に出る。ラヒルはエチオピア難民であったため、常々国外に脱出したいと思っていた。ただ、身分証明がないので、ある男に、ニセの証明書を作ってもらう手はずになっていた。だが、手数料が足りないため、ラヒルが不在のとき、ヨナスはその男の手に渡ってしまう。
ゼインは、両親を訴える前に、実は、傷害事件を起こしていた。妹サハルは、アスプロに引き取られた数か月あと、病院に担ぎ込まれ、死亡した。放浪先から証明書を手に入れるため、自宅に戻ったゼインは、それを聞き、包丁を手に、アサードのところに行くのである。傷害のシーンはないが、法廷にアサードが、車いすで入ってくることで、傷害の程度がわかる。
ゼインを演じるゼイン・アル・ラフィーア少年は、実際にシリア難民として、ベイルートに8年近く住んでいたという。映画のなかのゼインの生活ぶりは、そのまま本当のゼインの姿でもある。子供ながらに、重労働や配達などの仕事に付かざるを得ず、学校に行ってもいない。スラムに生きる子供たちのありさまは、ゼインやそのまわりの子供たちそのものである。撮影中、ゼイン自身のアドリブのアイデアもあり、監督はそれを採用したこともあるようだ。
いわゆる難民の子供たちの生活が、いかに残酷なものであるか。実際にベイルートの貧民街での撮影があり、空撮や街中のカメラで、その現実はしっかり捉えられている。
ゼインの家族は、寝るときも雑魚寝の生活であり、カーテン一枚横では、両親がセックスをしている。ゼインが、サハルの寝ていたところに血痕をみつけ、翌日、サハルの履いているパンツを脱がせて洗い、自分のシャツを丸めて股下に入れろ、という。サハルは初潮について、何の知識もないのである。
ゼインが仕事をしているわきに、スクールバスが止まり、生徒を降ろす。これらの現象に、ゼインは羨ましいといった表情を見せるでもない。そんな感情すら湧いてこないほどに、日々食っていくことで精一杯なのである。ゼインはじめ子供たちが、カップに刻んだ野菜を入れ、レモンの汁を垂らして、盥に入れて売っている。ゼインの生活は、路上での商いや配達と、家族が犇めく自宅のなかで、友達もおらず、勉強や遊びさえないのである。
ドキュメンタリータッチの映画だけに、ストーリーに大きな起承転結があるわけではないが、ほとんどがロケ撮影でもあり、こうした社会現象は、ハンディカメラで撮られるだけでも、監督の意図は充分伝わってくる。
カメラは、話の区切りに、貧民街を俯瞰し、通りを映す。小さなビル群が犇めいて建っており、狭い通りは雑然としており、ゴミが散らかっている。少年刑務所や留置場も、日本などとは比べものにならない貧相ぶりだ。
ようやく逃れてきた難民たちの実態を、子供の視線で描いた秀作だ。
髪も伸び、汚れた格好をしていたゼインは、出国証明書用に、写真を撮る。このラストシーンで、ゼインは初めて、笑顔を見せる。とてもすてきな笑顔であり、これこそ、「ふつうの」少年の素顔なのである。
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