映画 『にがい米』

監督:ジュゼッペ・デ・サンティス、脚本:コッラード・アルヴァーロ、ジュゼッペ・デ・サンティス、カルロ・リッツァーニ、カルロ・ムッソ、イヴォ・ペリッリ、ジャンニ・プッチーニ、原案:ジュゼッペ・デ・サンティス、カルロ・リッツァーニ、ジャンニ・プッチーニ、撮影:オテッロ・マルテッリ、編集:ガブリエレ・ヴァッリアーレ、音楽:アルマンド・トロヴァヨーリ、ゴッフレード・ペトラッシ、主演:ヴィットリオ・ガスマン、ドリス・ダウリング、シルヴァーナ・マンガーノ、ラフ・ヴァローネ、1949年、107分、白黒、イタリア映画、原題:Riso amaro(苦い米)


シルヴァーナ・マンガーノ、19歳のデビュー作品。撮影当時は18歳と言われるが、とても18歳の娘には見えないほどの豊満な肢体を晒し、踊るシーンでは、剃らないままの腋毛も見せたことで、有名になった映画だ。だが、シルヴァーナ・マンガーノの肢体が内容にもつ意義は大きいが、本作品は、決してエロティシズムを描いた作品ではない。むしろその豊満な肢体は、映画そのものにパワーを与えるに寄与したと言っていい。


宝石泥棒をしたウォルター(ヴィットリオ・ガスマン)とフランチェスカ(ドリス・ダウリング)は、出稼ぎの女性たちの到着で混乱する駅に逃げてきたが、刑事はすぐそこまで来ていた。ウオルターは、フランチェスカに、田植えの女性たちに紛れ込めと命じ、自身はどさくさ紛れに汽車に乗って逃げてしまった。出稼ぎの女性たちの中にシルヴァーナ(シルヴァーナ・マンガーノ) がいて、駅前でひとり陽気に踊りを披露していた。

田植えの現場に来ると、契約していない女たちは帰れ、と言われるが、元に戻れないフランチェスカは、同じように契約をせずに来た女性たちと力を合わせ、使用者たちに、自分たちも必要な労働力であることを知らしめた。出稼ぎの女たちは、納屋のようなところに寝泊まりすることになるが、そこでフランチェスカとシルヴァーナは顔見知りになる。シルヴァーナは、フランチェスカが、盗んだネックレスなどを隠すのを目撃した。・・・・・・


シルヴァーナには、軍隊からしばらく帰ってきているマルコ(ラフ・ヴァローネ)という恋人がいるが、マルコはフランチェスカと会うことで、心動く、一方、いつの間にか、この地に舞い戻ってきたウォルターは、シルヴァーナと親しくなる。

本作品は、この男女四人の駆け引きに、ウォルターの悪事を絡め、その舞台を、大勢の女たちが働く広大な水田に据えた作品である。


ウォルターは、米蔵にある大量の米を、トラック数台で運び出そうと計画する。そのためには、米蔵から人々の目をそらす必要があったが、それに利用されたのがシルヴァーナであった。シルヴァーナは、各所の水門を開け、水田に大量の水が流れ込んでくる。田植えを終えたあと、一組のカップルの誕生を祝う祭りが開かれていたが、お祭り騒ぎどころではなくなり、居合わせた人々は、スコップなどを持って、一斉に水田のほうへ向かう。フランチェスカは、途中で会ったマルコに事実を話し、ウォルターとシルヴァーナを、倉庫に追い詰める。主役四人が集まるこのラスト10分ほどは、本作品の圧巻である。


祭りの櫓から飛び降りたシルヴァーナの遺体には、毛布がかけられた。知り合いでもあり、いっしょに働いた女性たちは、給与とともに一袋の米をもらっていたが、そこから米を一握り掬い、毛布の上にかけてやるのであった。


特に入り組んだストーリーではなく、正義や悪を対決的に描いたわけでもない。男女の気持ちのやりとりが繊細に描かれているかといえば、そうでもない。しかし、冒頭からラストシーンにまで画面を覆う多くの女性たちの生きざまや労働が、おのずから四人の辿る運命を導いているかのようである。


それを可能にしているのは、無論カメラワークである。冒頭はじめ、何箇所かでクレーンを使い、上昇し下降して、多数の女性たちや水田を俯瞰し、あるいは泥だらけの広い大地を映し出す。パンもよく効いていて、冒頭の駅でのシーンをはじめ、女たちの労働の現場をしっかり映し出している。人物に近付くときも、アップは使わず、ツーショットでもバストショットくらいに抑えている。


主役をあえて絞るなら、シルヴァーナとフランチェスカになる。二人が出会うことで、二人は互いの恋人に好意をもつようになる。そして、ウォルターに愛想を尽かせていくフランチェスカと、その悪い男に運命を狂わせられていくシルヴァーナは、対照的な結末を迎えることになる。


戦後間もないころに世に出た、力強さをもつ作品である。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。