監督:吉田喜重、脚本:山田正弘、吉田喜重、撮影・スチール:長谷川元吉、美術:石井強司、照明:海野義雄、録音:久保田幸雄、音楽:一柳慧、主演:岡田茉莉子、細川俊之、1970年、216分、白黒、シネマスコープ、配給:日本アート・シアター・ギルド。
束帯永子(そくたい・えいこ、伊井利子)が、伊藤野枝の娘、伊藤魔子(岡田茉莉子、伊藤野枝と一人二役)にインタビューをしている。その後、タイトルが出る。
アナーキスト、大杉栄(細川俊之)は、妻同様の堀保子(八木昌子)がありながら、二号、正岡逸子(楠侑子)をもち、さらに、辻潤(高橋悦史)の妻、伊藤野枝(岡田茉莉子)とも相思相愛の仲であった。野枝は、平賀哀鳥(稲野和子)の元で、社会運動誌の原稿書きに生き甲斐を見出し、家庭をあまり顧みないでいた。大杉は、すべてに自由を尊重するとし、三人の女を公平に愛していると公言して憚らなかった。
昭和44年現在の束帯永子と彼女と付き合う和田究(原田大二郎)の行動を象徴的に挿入しながら、大正5年当時の男女の模様を、当時の大杉栄や女性解放運動を背景に描いている。一連の事件のあと、過去に登場した人物が一堂に会し、永子と和田の前に立ち、写真を撮られてエンディングとなる。
大杉栄やその仲間との会話などに、多少、社会運動の意義などは語られるが、この3時間半に及ぶ映画は、むしろ、大杉とその女たちとの奔放な関係を、限りなく凝りに凝った映像と会話で表現することに終始している。
ストーリーは大杉と野枝の関係を軸に、現代からの問いかけを絡めて進んでいくが、大杉の女に対する罪を糾弾する以上に、大杉を愛する女たちの心情を、ひたすら、映像で、微細に、描写することに専念する。
カメラと演出は、実に作為的である。二人の人物が中央付近を占めるシーンは、ほとんどない。室内シーンが多いが、人物が歩いてくるシーン、対話をするシーンも、カメラが移動したり、動く人物に応じてカメラも動いたりと。カメラは変幻自在の動きを見せる。遠景シーンの仰角や、海岸のシーンなど、シネマスコープを使った効果が出ている。
特徴的なのは、室内に人物が入ってきて歩くときなど、カメラは高い所にあり、人物の首より上しか入れない場合が多い。全般に、あるシーンに移ったとき、フレームの上半分は鴨居より上の空間が占めているといった撮り方をしている。これは頻繁に出てくるので、シーンごとの効果を狙ったものというわけではなく、吉田の映像の個性というべきだろう。このシーンは、平凡な日常ではないですよ、という、観客に対するメッセージなのであろう。
ストーリー展開にいわゆるエンタメ性はないが、桜のシーン、海岸のシーン、大杉殺害のシーンなど、背景、人物の動き、カメラワークなど、吉田の美学を集大成したような作品である。
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