監督:綾部真弥、脚本:永森裕二、撮影:伊藤麻樹、編集:岩切裕一、美術:中谷暢宏、照明:尾下栄治、録音:飴田秀彦、音楽:仙波雄基、主演:大谷亮平、小林且弥、2018年、111分、配給: AMGエンタテインメント=スターキャット
静岡県のとある港町にある居酒屋が舞台。
銭形富男(大谷亮平)・銭形静香(小林且弥)兄弟が営む居酒屋「銭形」は、同時に、闇金稼業も行っている。十日で三割の利子を付ける<とさん>という違法な高利貸しであった。
ある晩、静香は、ヤンキーグループ4人に殴られ、寝転がっていたが、そのうちの一人、樺山博史(玉城裕規)が助っ人を頼んだボクサー上がりの剣持八雲(田中俊介)を、起き上がったうえ、殴り飛ばしてしまう。
静香と店に戻った4人と八雲は、ひと皿5万円の枝豆を出され、アクセサリーやリングなどカネに替えられるものを置いて行け、と言われる。4人が帰ったあと、八雲は、この店で働きたい、と言う。富男は、居酒屋でなく、金貸しのほうで、八雲を雇うことにする。・・・・・・
違法金融と人情を絡めるヤクザものや、それをコメディ風に仕上げるものは多いが、本作品は、異父兄弟の間柄を軸に、その敵に当たるヤクザと、特定の女性客二人に焦点を絞っている。闇金の取り立てなどをアクション交えて繰り返すような内容ではなく、闇金に端を発するヤクザ同士の抗争に焦点を絞ったものでもない。ヤクザ映画でもお笑い映画でもなく、銭形兄弟の関係を軸に置き、兄弟やそれにまつわる人間模様を描き出そうとする映画だ。軸が定まったことで、ストーリーにブレがなく、ストーリー展開のテンポも一定で、要所要所の締まる作品となった。早乙女珠(佐津川愛美)は、兄弟の話の軸をわきで支える存在で、メインとサブを置くストーリーの書き方も正統派オーソドクシーで、作品の功を奏する要因となっている。その上で、じんわりとくるエンタメ性も確保されている。
あえて言うなら、序盤、富男のモノローグが多かったとは思うが、出だしでもあり、ストーリーを始めるにあたり、どうしてもカットしたくなかったのであろう。それほど邪魔ではない。
カメラワークに、特に目立つところはないが、脚本同様、実に、基本に則り、背伸びしない誠実な撮り方と編集に、好感がもてる。予算の枠は必ずあるものだが、その範囲のなかで堅実な撮り方をしている。兄弟がアーケードを向こうから歩いてくるところから静香が思いのたけを吐き出すまでの一連のシーン、富男が八雲と公園のベンチで話し、年寄りから絵を買うまでのシーン、樺山が元の仲間の情に感激し、合流する場所で静香と会うシーン、その後、静香に言われて樺山が磯ヶ谷(渋川清彦)に電話してから静香が川に放り込まれるまでの一連のシーンなど、妙に凝る撮り方や編集ではない。いかにも普通のシークエンスに見えるところが、却ってよいのである。これらのシーンに、顔面のアップはない。特定の目的以外でアップを多用すると、<絵>が下品になる。内容が闇金だから下品になっていいのではない。映像作品として、どのあたりで品性を保つかということが大事なのである。撮影や編集が、このあたりをよくわかっているのだ。
富男が早乙女を待ち伏せするトンネルのシーンのセットはおもしろい。なぜ、ここに提灯が並び、扇風機があるのか。この、ありえないセットは、この映画の個性を示しているのだろう。たまたまそこに街頭がないなど理由は考えられるが、薄暗いところなら、照明だけでなく、いっそうのこと、ここに提灯を下げてしまおう、というスタッフの乗りを垣間見られるシーンだ。
俳優はそれぞれ、新鮮な演技を披露していた。小林且弥はこの手の役が多いが、『ビルと動物園』(2008年)のような映画にも、もっと出てもらいたいものだ。佐津川愛美は、演技のできる女優だ。『宮城野』(2009年)で印象に残っている。樺山は準主役の立場であり、玉城裕規はみごとに演じ切っている。今回は汚れ役であるが、舞台出身の俳優らしく、発声や滑舌、身のこなしがよい。
監督、脚本、撮影、編集、俳優が、分業形態で、それぞれの分野において、基礎を大事にするとき、誠実な作品が出来上がるという、よい見本となる映画だ。テレビや新聞社など大手の資本が入ると、ロケやエキストラに投資できるが、製作に自由が利かなくなるうえ、出来上がった映画を観ても、ほとんどはおもしろくない。映画製作は、映画を大事に思う人々の手によって、初めて「うまく行く」のである。内容がどんなものであれ、カネばかりかけて利益を優先させ、エンタメ性を置き去りにした映画に、おもしろいものはなく、印象に残らない。
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