映画 『家族の肖像』

監督:ルキノ・ヴィスコンティ、脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、エンリコ・メディオーリ、撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス、編集:ルッジェーロ・マストロヤンニ、音楽:フランコ・マンニーノ、主演:バート・ランカスター、ヘルムート・バーガー、1974年、121分、イタリア映画、フランス合作、英語、原題:Gruppo di famiglia in un interno(インテリアの中の家族集団)英語版=Conversation Piece


英語題の「Conversation Piece」とは、18世紀イギリスで流行した「家族の団欒を描いた絵画」のことだそうだ。


美術史の研究をしている老年の教授(バート・ランカスター)は、ローマのアパルトマンで、自ら集めた絵画や美術品、膨大な蔵書に囲まれ、静かに一人で暮らしていた。教授以外には、家政婦エルミニアらがいるだけである。

ある日、画廊の人間が、一枚の絵画を売りに来たが、値が張ることもあり、教授は断った。そこにいっしょにいた夫人は残る。タバコを吹かしながら話すその高慢な夫人は、画廊の人間とは無関係で、教授に、上の階のへやを貸してくれと頼む。その夫人ビアンカ(シルヴァーナ・マンガーノ)を追って、その娘リエッタ(クラウディア・マルサーニ)、リエッタと同居するステファノ(ステファノ・パトリッツィ)、彼女らの仲間コンラッド(ヘルムート・バーガー)がなだれ込んでくる。教授は、突然の無礼な申し出であり、上の階は使う用途があり、一人の静かな生活が乱されるから、と断る。

その後、先ほど買うのを断った絵を持って、リエッタらがやってくる。ビアンカが買い、その絵をプレゼントするから、上の階を貸してくれと頼む。教授は仕方なく、一年だけ貸すということで落ち着く。そこには、コンラッドが一人で住むことになる。

ある深夜、上階の大きな物音で起こされた教授が上がっていくと、二人の人間が逃げる影が見え、コンラッドは、額と唇から血を流し、床に倒れていた。警察には通報しないでくれと言うので、教授は、階下の書斎の奥にある隠し部屋にコンラッドを引き入れ、ベッドに寝かし、自分は居間のソファで寝た。

翌朝、コンラッドが、モーツァルトのレコードを聞き、壁にある絵のことを話すうち、教授はコンラッドに関心をもつ。単なるだらしのない男ではなさそうだ、と教授は思った。・・・・・・


教授の名前は、最後まで明かされない。終盤で、コンラッドには、いろいろ悪しき過去があり、左翼運動に傾倒していた過激派であることや、ビアンカの夫である実業家は、ファシズムを支持する右翼の過激派と通じていることなどが明かされる。

コンラッドは、ビアンカの愛人であり、それでビアンカが教授に間借りを頼んできたのであるが、娘のリエッタとも仲が良い。ビアンカとコンラッドは、ときに口論もするが、愛人であることに変わりはない。

教授の回想シーンとして、数回、二人の女性が登場する。一人は、教授の妻(クラウディア・カルディナーレ)であり、もう一人は、教授の母親(ドミニク・サンダ)である。


上階を含め、すべて教授のアパルトマン内の撮影である。ヴィスコンティという名を隠せば、これがヴィスコンティの作品かと思うほど、カメラの動きや室外の光景は<一般的>である。ただ、室内の絵画、蔵書、家具などは、いかにもヴィスコンティ好みで渋く豪華である。


ほとんど交流のない若い世代と、強引にも知り合うことになった教授は、そのマナーのなさ、図々しさ、ためらうことをしない物言いなどに辟易するが、コンラッドが一枚の絵に詳しかったことから、少しずつ、心を開いていく。そして、最後に、教授自らが、彼らを晩餐に招待する。

後からビアンカも来るが、その席で、思想上の相違を巡り、コンラッドとステファノが掴み合いの喧嘩を始める。教授は二人をなだめ、席を居間に移し、皆でコーヒーを飲む。そこで各人がまたいろいろ話すが、そこに、教授の「皆がまるで家族のようだ」という台詞が聞かれる。


コンラッドは教授に短い手紙を出すと同時に、また上階に来たようだ、と思った瞬間、上階で爆発音がし、そこにはコンラッドが息絶えていた。

ショックを受け、ベッドに横たわり、医師に心電図をとってもらうと、重ねるように、ビアンカとリエッタが見舞いに来るシーンが映される。一人になると、上階から足音が幻聴として聞こえ、教授は目をつぶったまま映像は止まり、エンディングとなる。

オープニングでは、心電図の細い紙が床に垂れてたまっており、それが、このラストに通じている。

いわば、自ら死を予知するような教授の物語は、当時、生死の境をさまよったヴィスコンティ自身を象徴している。


コンラッドは、教授にとって、外界とのつながりをもつ興味深い対象であったが、教授の身近で、理由は不明のまま彼が爆死したことで、教授はショックを受ける。価値観も行動も全く別の世界の若者たちではあったが、最後には彼らは、「インテリアに囲まれた家族」のような存在となっていった。コンラッドが爆死という死に方をしたことで、教授は、いっときは認めた若者世代との時空間を、突然、断ち切られてしまったのである。


貴族が落ちぶれる、という姿は、ヴィスコンティの好むストーリーだが、本作品にも、似た匂いが漂っている。観客からすれば、そうしたテーマそのものに、関心の向き不向きはあろうが、一編の映画として成功してるのかどうかを見極めたい。

本作品のストーリー展開は、いきなり押しかけてきた夫人や若者たちのように、あまりにも強引で傲慢である。室内劇だから、カメラは動きを心得ているが、台詞が、いかにもポイントだけ語るような乾いた言葉の連続で、優雅に動くカメラと、歩調を合わせているように見えず、対照的である。

ヴィスコンティの製作意図が、どれほど観客に伝わったかは疑問が残る。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。