監督・脚本:瀬々敬久、原作:吉田修一「犯罪小説集」、撮影:鍋島淳裕、編集:早野亮、音楽:Joep Beving、主演:綾野剛、杉咲花、2019年、129分、配給:KADOKAWA
物語は、「Ⅰ 罪」「Ⅱ 罰」「Ⅲ 人」と区切られているが、見る限り、それぞれに区切りらしいテーマ性はなく、話は全編で連なりをもっている。
長野県内の中堅都市とその周辺の村落が舞台。
フリーマーケットで、許可をとらずにリサイクル品を並べていた中年の女(黒沢あすか)を、若い男が殴っている。息子の豪士(たけし、綾野剛)は、無口で力もないので、村人に助けを求める。村のまとめ役の藤木(柄本明)が来て、騒ぎは収まる。
ある日、稲田が広がる農道で、少女が行方不明になる。Yの字状の分かれ道で、右に行ったのは「紡(つむぎ)」であり、左へ行った「愛華(あいか)」が誘拐されたらしい。愛華は、藤木の孫娘であった。住民は、付近一帯を探すが、結局、犯人はわからずじまいとなった。
12年後、また同じYの字の分かれ道で、同じような幼女誘拐事件が起きる。これも犯人に手がかりはなかったが、豪士が怪しいということになり、村人は、一人住まいの豪士の住宅に押し入る。帰ってきた豪士は、住民の異様な雰囲気を見、街中の居酒屋に逃げ、灯油を撒き、自らも灯油をかぶり、火を付けてしまう。
その頃、その村の奥に越してきた善次郎(佐藤浩市)は、養蜂業を営んでおり、村おこしのために協力することになるが、話がこじれたことで、村八分扱いとなり、愛犬レオは、村人の脚に噛みついたこともあり、檻につながれる。追い込まれた善次郎は、村人数人の家に火を放ち、自らも林の中で、鎌を使って腹を切るが、警察に発見され、救急車で運ばれる。
12年後のシーンから登場する、成長した紡(杉咲花)は、おとなしい性格で何を考えているかわからないような娘であったが、生前の豪士や善次郎を多少知っていたため、それぞれの事件に、愛華の事件のとき同様、心を痛める。紡には、言い寄ってくる野上広呂(村上虹郎)がいたが、いろいろあった村を離れ、東京に出て、青果市場で働くことにする。あるとき、広呂が、同じ職場にいることを知り、驚く。・・・・・・
公式サイトの終わりに、「Y字路から起こった二つの事件、容疑者の青年、傷ついた少女、追い込まれる男…三人の運命の結末は―。」とある。このうち、 容疑者の青年(豪士)と追い込まれる男(善次郎)は、自ら命を絶つことになるが、豪士が犯人であったと断定するシーンはない。傷ついた少女(紡)は、少女時代の友達の失踪や豪士、善次郎の自害について、心を痛めはするものの、広呂の病気やその快復といったサイドストーリーもあり、前を見て歩いていくことになる。
角川がカネを出しているだけに、ロケや空撮、小道具、セットなども行き届き、映像の出来としてはすばらしい。カメラも特にこだわった撮り方のところはないが、カメラワークの原則に乗って丁寧に撮られている。
問題は脚本で、映像の展開は、現在から過去へと飛び、現実から空想へと飛ぶが、それらをつなぎ合わせた一本の映画として、それらの方式がうまくいったかどうかは疑問だ。
豪士が少女誘拐の犯人であったと断定するシーンはないが、そもそもどういう風な事件であったかの概要さえ説明はない。豪士が自害することで、犯人だと言うのか。豪士の自害シーンはあるが、善次郎の犯罪は、ニュースのレポーターが話す程度で触れられるだけで、あとは林の中での腹切りとなる。また、仮に豪士が誘拐殺人犯だとして、その動機は何だったのか。7歳のころ異国である日本に来たうえ、言葉もうまく話せず、生来の内気がついに何らかの形で爆発したとでも言うのか。善次郎については、村八分にされたことや、亡き妻への強い思いが、連続放火殺人のエネルギーとなっているようだが、描写されてきたふだんのふるまいからは、とても想像できない。
この映画自体の中心は、紡であることに間違いないが、もともと、意志を表に出すことをしない少女ではあるが、それにしても、愛華が誘拐されたことで心が痛んだことを始めとし、豪士が死に、善次郎が自殺を図ったことにいたるまで、いつも蝋人形のようで、観る側としては感情移入ができない。広呂が癌になったり、退院することになるのも、どちらも全く唐突で、無理に表現しようとする紡の心理に、強引に合わせたのではないかと思われる出来事だ。広呂と飲んで歩いているとき、愛華らしき人物が映るのも、思わせぶりなだけで意味がない。
ここに、いつもの私なりの原則が当てはまるような気がする。つまり、監督が脚本を兼ねると、非常に優れた作品か、非常に見劣りする作品かに、はっきりと分かれる、という原則だ。兼務すると、この台詞は削りたくない、このシーンは削りたくない、このシーンはあまり短くしたくない、など、監督の<思い込み映画>が出来上がる。本作品では、この思い込みは、台詞や編集ではなく、現在と過去、現実と空想の交錯という手法に現れている。
本作品は、事件そのものより、楽園といったものがどこにあるのか、本当に存在するのか、紡にとってそれは何か、といったことへ収斂していくストーリーであるようだ。なぜなら、事件の詳細については、ほとんど語られないからだ。
それだけに、終盤、いろいろなシーンを交錯させることで、紡の心象を表現したかったのだろう。この手法が、かえって徒(あだ)となり、すわりの悪い映画になってしまった。
出演者のうち、根岸季衣、黒沢あすかの演技はすばらしい。
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