映画 『ぼくの伯父さん』

監督・脚本・製作・主演:ジャック・タチ、撮影:ジャン・ブールゴワン、編集:シュザンヌ・バロン、音楽:アラン・ロマン、フランク・バルチェッリーニ、1958年、120分、カラー、フランス映画、原題:Mon Oncle


登場人物は、ユロ(ジャック・タチ)と、その甥っ子ジェラール(アラン・ベクール)、ジェラールの父チャールズ(ジャン=ピエール・ゾラ)、ユロの妹でジェラールの母(アドリアンヌ・セルヴァンティ)の四人で、そのほか、家政婦ジョルジェット(イヴォンヌ・アルノー)、庭でのパーティに招かれる隣家の婦人(ドミニク・マリー)や工場の主任夫妻、である。中心は、ユロであり、タイトルは、ジェラールから見たユロの存在である。


ユロ自身は、パリの下町のアパートに住んでおり、これに対し、チャールズ夫妻は、チャールズがプラスティック製品の製造工場の社長を務めているだけあって、庭のある豪邸に住んでいる。舞台の中心はこの豪邸の庭であり、そのほか、タチの住むアパートの前に広がる広場や、後半に出てくるチャールズの工場である。


物語らしきものがあるとすれば、無職で子供っぽいユロを心配し、チャールズ夫妻が心配し、チャールズの工場で働かせようとするが、結局うまく行かず、アパートも出て、ユロはひとり遠くに行く、ということだけだ。


ユロは、常に、小さい帽子をかぶり、パイプを咥え、古ぼけたレインコートをまとい、つんつるてんのズボンを履いている。表情は豊かで行動も活発だが、ほとんど口を利かない。これはまた、タチ監督の作ったユロという中年男のキャラクターであり、以後、彼自身の自作自演の映画で登場することになる。


ユロが、豪華な暮らしを嫌って、アパート暮らしをしている感じではなく、なぜそこに住むようになったかといった経緯は話されない。前半に、ジェラールの仲間たちの悪ガキどもが、通行人に罪のないいたずらをするが、ユロの精神構造は、実に無邪気で、ジェラールに近い。


どちらも太ったチャールズ夫妻の家は、当時としても珍しいほどのハイテクが行き届いており、白で統一されたキッチンは、すべてオートマチックである。近代的な室内には、モダーンな階段やイス、テーブルがあり、玄関となる出入り口の扉は、開閉もボタンひとつである。丸い石や芝生できれいにつくられた庭も近代的で、中央には、上を向いた魚の口から水を噴く噴水もある。客が来るとき、こてもボタンひとつで噴水させ、客でないとわかると止める。二階には丸窓も二つあり、中央から回転するようになっている。


ジェラールはどちらかというと、この近代建築を窮屈に思っており、子供心に、ユロのような気の置けない生活のほうに憧れている。だから、ジェラールとユロは仲が良い。

庭でのパーティに招かれる人々は、いかにもスノッブ風であり、そこに招待されたユロは、マイペースでやり過ごすしかない。


この映画に見どころは、ストーリーよりも、オープンセットとして作られたこの豪邸の庭であり、外観から見たユロの住むアパートのつくりであり、パーティや工場でのユロの滑稽な存在感である。チャップリン風な存在感ではあるが、すべてが自動化された妹夫婦の豪邸を、アナログの立場から批判することもない。無職でありながら、資本家であるチャールズらを羨むわけでもなく、僻むわけでもない。単に、ユロという無邪気な中年男の日常を、その周辺の人間たちも含め、当時としては美しく撮られたカラーフィルムで、ユーモラスに描き出した映画である。


ストーリーに裏打ちされた映像を観るつもりでいると、興覚めになるだろう。ユロやジェラールの関わり合いや心の交流のようなものが描かれていれば、もう少しのめり込めるのだが、それらしい交流も、さらりと外からパントマイム風に撮られるだけで、ぐっとは来ない。

この映画は心理ドラマではなく、あるいは、そうしなかったのは、人物のいるシーンの撮影は、ほとんど全身を撮っていることからもわかる。バストショットやアップなどはほとんどない。住宅の展示場か近代美術館の前庭を見るような映画であり、カメラワークのおもしろみさえなかった。それがこの映画の個性であると言われれば、それまでだ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。