映画 『ジョーカー』

監督:トッド・フィリップス、脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー、撮影:ローレンス・シャー、編集:ジェフ・グロス、音楽:ヒドゥル・グドナドッティル、主演:ホアキン・フェニックス、2019年、122分、原題:Joker


40代半ばとなったアーサー・フレック(=ジョーカー、ホアキン・フェニックス)の夢は、コメディアンになることであったが、なかなか目が出ず、今はしかたなく、小さな事務所に属し、ピエロに扮し、閉店セールの看板かつぎなどしている。古ぼけたアパートに、認知症気味の母親と二人で生活している。二人の好きなテレビ番組は、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務める「マレー・フランクリン・ショー」であった。

看板かつぎをしているとき、不良少年たちに看板を奪われ、アーサーは少年たちを路地に追い詰めたが、看板は壊され、逆に集団暴行を受けた。それを知った仕事仲間のランドル(グレン・フレシュラー)は、護身用に使えと言って、事務所でこっそり、アーサーに拳銃を渡してくれた。

ある日、小児病棟へ慰問に訪れたアーサーは、芸を披露するうち、持っていた拳銃を床に落としてしまう。後に警察に聞かれるが、七つ道具の一つだ、とごまかす。しかし、地下鉄に乗っているとき、女性にちょっかいを出す三人組の一流会社のサラリーマンの男と揉み合いになったとき、その拳銃で三人を撃ち殺してしまう。そのときアーサーは、ピエロのメイクをしていたため、警察は、ピエロ芸人であるアーサーを疑うことになる。

街中は、財政難やネズミの大発生により、人心は穏やかではなく、金持ちを優遇し、きれいごとしか言わない次期市長候補トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)に対して、反感が強く、一部の者は、ピエロの面をかぶってウェインを罵倒していた。そのさなかに起きた地下鉄での殺人事件に対し、貧乏人が起こしたことだとウェインは強く非難するが、貧困層は、ことのよしあしよりも、ウェインが庇う一流会社の三人を殺したピエロの行為には、寛容であった。・・・・・・


アーサーは、精神的不安定のため、とっさに意味なく笑い出してしまうという持病があり、それが上記の事件を起こすきっかけともなっているが、カウンセリングを受けても、一向に効果はなく、安定剤を飲み続けている。コメディアンになるという夢も見果てぬ夢となり、ようやくアルバイトをし、病気がちの母の世話を焼き、やがて、事務所もクビになる。

つまり、アーサーは、人生のどん底にありながら、それでもなお、芸人になることを夢見て、他の仕事は探さず、小さなホールに出たりしている。

そんなアーサーの憧れは、母も喜んで見ていた「マレー・フランクリン・ショー」に出ることであった。たまたま、小さなホールでのアーサーのトークが、「マレー・フランクリン・ショー」で取り上げられ、いよいよアーサーは、この番組に、ゲストとして出演することになる。


アーサーがピエロのメイクで出てくるが、メイクをしていない沈鬱な素顔で出てくるほうが多い。そもそも健康でないカラダであり、そこに病身の母や失職もつづき、人殺しの容疑で追いかけられもする。ようやく当たったショー出演という一条の光明は、アーサーの未来を拓くとも思えたが、すでに屈折した心理の塊となっているアーサーに、ついに明るい未来はやって来なかった。

かろうじて、彼の意志を継ぐのは、ピエロという<仮面>でつながった、同じく貧困層の人々であり、それが証拠に、彼らは、連行されるアーサーのパトカーに、乗っ取った救急車をぶつけ、アーサーを連れ出し、ボンネットの上に寝かせる。興奮した暴徒は、アーサーのしたことに歓喜の声を上げ、アーサーはグラスゴースマイルをつくり、ボンネットの上で踊る。同じころ、ピエロの面をかぶったある男は、付近にいたウェインと妻を撃ち殺す。


カメラ自体に特殊なものはなく、ホアキン・フェニックスの演技力で見せる映画である。

ひとりの男の屈折した心理を追うドラマなので、いわゆる<並列つなぎの単線映画>だから、当然ながら、退屈感は否めない。特に、前半は、アーサーの置かれた状況などが次々と明らかにされ、観ているほうも沈痛になる。憧れていた「マレー・フランクリン・ショー」は、その本番中に、アーサーがマレーを射殺するという事態により、アーサーは自身の未来を前途無効としてしまう。最期まで決して救われないストーリーである。


シリアス一辺倒で、きれいな女優や景色が映るでもない点は、それなりに評価したいが、ジョーカーが生まれていくというプロセスを考慮するなら、アーサーを妄信する暴徒らの中にリーダー格の人物をつくり、それを副主人公としてアーサーの物語に絡ませるストーリー展開のほうが、観ている側にも熱が入ったのではないか。主張の明確な映画だなとは思っても、もうひとつ見応えを感じないのは、映画としてのエンタメ性に欠けるからである。


本作品でも、拳銃は大活躍する。最近の邦画でも、『銃』『タロウのバカ』など、拳銃がきっかけとなっているドラマは多い。日本であれば、拳銃は、社会生活に馴染みのない存在であり、ストーリー上、一定の効果があるが、架空の都市とはいえ、アメリカを舞台とする映画で、冒頭近くにさらりと拳銃がアーサーの手に入ってしまうくだりは、用意がよすぎ、調子がいいな、と感じざるを得ない。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。