映画 『ニーチェの馬』

監督:タル・ベーラ、アニエス・フラニツキ、脚本:タル・ベーラ、クラスナホルカイ・ラースロー、製作:テーニ・ガーボル、撮影:フレッド・ケレメン、編集:アニエス・フラニツキ、音楽:ヴィーグ・ミハーイ、主演:ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ、2011年、154分、モノクロ、ハンガリー語、ハンガリー、フランス、スイス、ドイツ合作、原題:A torinói ló(=The Turin Horse、トリノの馬)


『倫敦(ロンドン)から来た男』(2007年)で有名なハンガリーの監督、タル・ベーラの作品。いまだ存命中だが、自ら、最後の作品と宣言している。


タイトルロールのあと、音楽のない真っ暗な画面のまま、ナレーションが入る。

1889年1月3日。哲学者ニーチェは、通りかかったトリノの広場で、御者に言うことを聞かず、鞭打たれる馬に出会う。ニーチェが駆け寄り、その首を抱いてやると、おとなしくなった。その後、ニーチェは精神の崩壊を起こし、最期の10年間を穏やかに過ごし、他界した。 馬のその後は、誰も知らない。


年老いた御者が、一頭の馬車をのろのろと歩かせている。誰もいない殺風景な田舎の道で、時折強い風が吹く。台詞はないが、陰鬱な弦楽四重奏がBGMとして流れる。この旋律は、本編の中でも、繰り返し流される。

このシーンは、4分30秒にわたる長回しで、これはプロローグに当たり、全編は、これにつづく「一日目」から始まり、「六日目」で終わる。強い風は「五日目」まで吹き続ける。ここ以外のシーンも、ほとんどが長回しである。


登場人物は、この男とその娘で、舞台は、この親子の家の中と近くの井戸や野原だけである。家といっても、荒野に一軒だけのまさに埴生の宿であり、土塀と土間でようやく成り立っているような住居だ。

この老父オルズドルフェル(デルジ・ヤーノシュ)は、右腕が不自由で、着替えのときには、娘(デルジ・ヤーノシュ)が手伝う。食事といっても、大きめなイモをゆでるだけで、その皮を剥き、塩をかけて食べるだけだ。洗濯も、薪で沸かした湯を盥に移し、手で絞った衣類を、ロープにかけて干す。薪と、外の井戸が、生活をようやく成り立たせている。


「四日目」で、井戸も涸れ、馬も食欲をなくし、突風の吹き荒れるなか、親子はいよいよこの家を出て行くが、引き返してくる。

「五日目」の終わりに再びナレーションが入り、嵐はようやく去り、あたりを静寂が支配している、と語る。しかし、ランプに火が付かなくなり、火種も尽きてしまう。

つづく「六日目」は最も短く、二人が何も言わず、向かい合ったままの長回しでラストとなる。


二人以外の登場人物は、「二日目」に、酒をもらいに現れる男と、「三日目」に、井戸の水を勝手に組みだす与太者の集団だけだ。「二日目」の男は、自前のニヒリズム論をまくし立てる。「三日目」の集団は、娘に一冊の本を置いて行く。食後に娘が読むと、ニヒリズム的な文面で、途中からナレーションに替わる。


ニヒリズムとは、この世界、及び、過去から現在にいたる人間存在には、意義、目的、価値などが何もないとする、哲学的な考えである。

「神は死んだ」とするニーチェによれば、ニヒリズムにおいて人間は、何も信じられない事態に絶望し、疲れきり、その時々の状況に身を任せ、流されるように生きるしかない、という態度」をとらざるを得ない、とされる。


ニーチェが抱き締めた馬を、プロローグに映るこの親子の馬に見立て、ニヒリズムの象徴として使っていることがわかる。馬は「二日目」から動こうとせず、次第に、飼い葉も食べす、水も飲まなくなる。

この馬あっての親子の生活であったが、馬は動かず、さらに、井戸が涸れ、燃料もなくなり、とても生活していける状態ではない。よいことと言えば、嵐が去り、静寂が戻った、ということくらいだ。

いつものように、茹でたイモを目の前に、親子が沈黙したままうつむいている。ニヒリズムの到達点とでもいうようだ。


カメラは、長回しを中心に安定しており、セリフもほとんど入らないので、見やすいが、タル・ベーラの言わんとするところを感じ取るには、多少の忍耐が必要な映画だ。


第61回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)と国際批評家連盟賞(コンペティション部門)を受賞している。日本では、2012年キネマ旬報ベスト・テン外国映画ベスト・テンで第1位となっている。 

日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。